冬季オリンピックの歴史
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シベリア鉄道で、サンモリッツに向ったノルディック代表選手たち
日本が冬のオリンピックに初めて参加したのは、1928(昭和3)年の第2回冬季オリンピック(スイス/サンモリッツ)の時で、選手はスキーのノルディック種目の6人だけ。これに監督が1人ついて、計7人という小編成のチームでした。
ご承知のように日本の北半分は雪国であり、冬には結氷する湖なども少なくはありませんでしたが、明治時代になって、欧米との全面的国際交流が始まるまで、スキーにもスケートにも縁が無い生活を続けており、大雪の積もった道や野原を歩く時は、“かんじき”という特殊なワラ靴を履いていました。
スキーが導入されたのは1911(明治44)年の1月12日。新潟県高田に駐屯していた陸軍第13師団の歩兵第58連隊で、長岡師団長の命を受け、選抜された士官に有志を加えた14名が、オーストリアからやってきた駐在武官レルヒ少佐に、この日から手ほどきを受け始めたのです。第2回以後の講習には一般市民の参加も認めたため、“スキーの輪”はたちまち広がりました。
当初、市民たちはスキー板の代わりに、竹を細長く切り、先を火であぶって曲げ、手製スキーで楽しみましたが、間もなく、目はしの利く大工や家具商などがスキー板の製造を始めたので、大正の始めごろには全国の主要積雪地帯に需要が広がりました。
レルヒ少佐の教えたものは、1本のストックを使って斜面を滑るアルペン・スキーの初歩技術でしたが、一方、1916(大正5)年になると、ヨーロッパ留学から帰国した遠藤吉三郎北海道帝国大学教授が、ノルウェー製の2本のストックとスキーを持ち帰り、これが起点となって、北海道でノルディック式のスキー(平地滑走とジャンプ)が始まりました。
全日本スキー選手権大会がスタートしたのは1923(大正12)年2月。スキー界はまだ全国組織がなかったため、あの嘉納治五郎氏が夏季オリンピック参加のために設立した「大日本体育協会」(JOCと日本体育協会の前身)が主催し、第1回大会は小樽(北海道)、第2回大会は高田(新潟)、第3回大会は大鰐(青森)で行われましたが、この間にスキー人の“大同団結”の気運が盛り上がり、1925(大正14)年2月、大鰐大会開会式後に全日本スキー連盟が発足。すべての事業を統括することになりました。冬季オリンピック初参加は、それから僅か3年後のことでした。
初の冬季オリンピック代表は、シベリア鉄道経由でヨーロッパ入りし、大会前にコルチナ・ダンペッツォ(イタリア)で国際学生大会があると知って飛び入り参加。第1日の16キロで矢沢武雄選手(早稲田大学)が4着、竹節作太選手(早稲田大学)が6着、翌日の滑降でも永田実選手(早稲田大学)4着、矢沢選手が6着となり、外電でこれを知った国内の留守番部隊を大喜びさせました。
しかし、オリンピックでは、そううまくはいきませんでした。50キロでは永田選手が24位、15キロは永田選手の26着がベストで、世界との差を痛感させられました。レルヒ少佐に手ほどきを受けた以外、日本はすべて独学でやってきたており、雪質とワックスの知識もないため、夜間に先進国の宿舎(山小屋)の窓から、彼らのワックスをスパイしたほど。当時の国産スキー板は桜材で折れやすいため、選手たちは山のようにスキーをかついで現地入りし、スイスの税関に密輸業者と疑われ、一時足止めをくったという事件さえ生んだほどでした。
距離スキーの日本は体力問題もあって、以後も苦戦を続けますが、ジャンプは2度目の参加(1932年/第3回レークプラシッド冬季大会)で、19歳の安達五郎選手が60m、66mを飛び8位。戦前の最後の大会となった第4回冬季大会(1936年/ガルミッシュ・パルテンキルヘン)では、伊黒正次選手が74m、72.5mで7位となり、僅かに前途に光明を見出します。