冬季オリンピックの歴史
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- 後編
アマチュア問題を乗り越え、自然との調和を目指す時代へ
戦後、アルペン人気が上昇、選手がスキー業界からさまざまな援助を受けるようになり、選手の側はメディアに映像を撮られる時、自分のスキーの商標がはっきり見えるようにする、というような状況が一般化したからです。ついに1972年、第11回札幌大会の開幕直前、ブランデージIOC会長(米国)は、ついに滑降の金メダル候補、カール・シュランツ(オーストリア)をアマチュアではなく“走る広告塔”(プロ)としてやり玉に挙げ、IOC総会は多数決(28対14)で、彼をオリンピックから追放してしまいます。史上初の出来事でした。
シュランツはオーストリアの有名メーカーの広告やCMに出て「シュランツは○○(メーカー名)のスキーで勝つ」などと宣伝しており、アマチュア違反は明白でした。しかし、選手が自分のお金だけで練習して、オリンピックに出られる時代は遥か昔に終わっていたことも事実で、この年限りで退任したブランデージの後任にキラニン卿(英国)がIOC会長に就任すると、『アマチュア』の文字はオリンピック憲章から消えてしまいました。さらに1980年代からサマランチ会長(スペイン)の時代になると、第14回冬季サラエボ大会(1984年、当時ユーゴスラビア)のアイスホッケーを皮切りに、プロ選手の導入が始まり、夏季大会のテニス、サッカー、自転車、バスケットボール、野球などにもプロが登場。今日ではアマチュア規定があったことさえ知らぬスポーツファンが当たり前になりました。それにしても世の中、変われば変わるものですね。
もうひとつ、書き落とせないものに環境問題があります。最初に世間の耳目を集めたのは前述の1972年札幌大会。恵庭岳に滑降コースをつくる際、山に手を加えるために自然が破壊されると環境団体が抗議し、結局大会後現状に復帰する約束でコースをつくりました。次いでデンバー(米国)が1976年の冬季大会に決った後で、オリンピック開催は州経済を圧迫する、自然環境を破壊するという市民団体、環境団体の反対で大会を返上する騒ぎがあり、オーストリアのインスブルックがピンチヒッターで開催を肩代わりするということがありました。
以来オリンピックでは、環境への配慮が大きな課題となり、IOCには「スポーツと環境委員会」が設けられたばかりでなく、オリンピック憲章にもそのことが明記されることになりました。
1994年の第17回リレハンメル(ノルウェー)大会は、“自然にやさしいオリンピック”をスローガンとして行なわれ、公害を出さず、環境保全を図るために事前ワークショップを開きました。続く1998年の第18回長野大会でも、何度も競技会場やコース設定を変更し、環境に最大限の配慮をしただけでなく、リレハンメル同様ワークショップで趣旨の徹底を図りました。選手村食堂の食器皿は、リレハンメルではジャガイモでしたが、長野では特産のリンゴでつくりました。ゴールドスポンサーのミズノは、溶かすと糸にかわるナイロン素材で4万数千着の公式アウトフィットをつくり、大会後は回収してリサイクル。2年後のシドニー夏季大会でIOC関係者のアウトフィットに役立てました。