冬季オリンピックの歴史
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冬季オリンピックのもう一つの戦いは天候異変
難産の末に誕生した冬季大会は、それからもさまざまなトラブルに悩まされ続けました。その第1は天候異変、とりわけ、しばしば暖冬に見舞われたことです。北欧が冬季大会創設に反対した時、「氷は人工で作れても、雪とスロープは作れないから(北欧以外で大会を開くのは無理)」と嫌みをいいましたが、不幸にもそれは続く第2回大会(1928年、サン・モリッツ/スイス)で的中してしまいました。
日中の気温上昇で、リンクの氷が溶け、スピードスケート1万mは途中でやめて再レース、ボブスレーは4ラウンドのところを2ラウンドに変えるなど、てんやわんや。第3回(1932年、レークプラシッド/米国)ではカナダから雪を運び、氷のコースがゆるんだボブスレーは競技を閉会式後に延期しました。
以後もこの種の話は尽きず、戦後の第9回(1964年、インスブルック/オーストリア)ではリュージュの英国選手が練習中、頭蓋骨骨折で、アルペンスキーの滑降でも、練習中のオーストラリア選手がコースを飛び出して立ち木に激突、いずれも死亡する痛ましい事故まで発生しました。第15回大会(1988年、カルガリー/カナダ)も暖冬で競技予定がくるくる変わりましたが、この大会から開催期間がこれまでの12日間から4日延び、16日間になっていたおかげで、何とか日程内で消化できたという、笑えぬ話までありました。
ところで、近代オリンピックは夏冬を問わず『アマチュア』つまり、他から経済的援助を受けることなく、自前のお金でスポーツ活動をする人だけが参加できる、という規則でスタートしました。ヒマとお金のある人しか出られない、と宣言しているに等しいこの規則は、やがてさまざまな問題を起こすことになりました。冬季大会が当面した難問は、アルペンスキー選手の問題でした。
アルペンスキーの盛んなフランス、オーストリア、イタリア、スイスなどではゲレンデ・スキーヤーのインストラクター(指導者)を職業としている有力選手が多く、IOCは彼らを「スキーで生計を立てているプロ」と認定してしまいました。このため1936年、アルペンスキーが初めて実施された第4回ガルミッシュ・パルテンキルヘン大会に、数多くの有力選手が出場できませんでした。
これをきっかけにFISとIOCの間でトラブルが始まり、IOCは1940年の冬季大会を札幌に決める際「いかなる形でもスキーは行なわない」ことを条件にしたほどでした(日中戦争の進展などで、夏季の東京大会とともに冬季の札幌大会も返上)。 問題はさらに尾を引きます。