オリンピアンズ・ストーリー
メダルの価値は、後の人生が輝いてこそのもの
バルセロナとアトランタの2大会連続でメダルを獲得した有森裕子選手。バルセロナでのエピソードから、アトランタのゴール後の有名な言葉に込められた思いや2016年東京オリンピック招致大使としての期待などを率直に語ってくれた。
記憶に残っているオリンピックといえば、1988年のソウルでしょうか。テレビで女子マラソンのロザ・モタ選手の走りを見て、人がこれだけ感動できる場にいられるのっていいなと思ったのを覚えています。そのせいか、当時の日記にも「オリンピックに出られたらいいな」と書いていますが、この時はまったくの夢でしかありませんでした。なにしろ「来年こそは国体に出たい」というレベルで実業団入りしたぐらいですから。
実業団では当初、国体種目の10,000mを目標に練習していました。岡山県の最終予選で1位。さあ、これで国体に出場できると思ったのも束の間、登録を忘れられていて出場できませんでした。その悔しさをバネに、私は「いつか見ていろ」とマラソン練習を志願しました。
ちょうどチームにはマラソンをやっている選手が2人いて、一緒に練習したところ、長野県の富士見高原での合宿で、かなり粘りのある走りができました。それで本格的にマラソンに挑戦し、初マラソンの日本記録を狙おうとなりました。練習を始めて4カ月。私は1990年の大阪国際女子マラソンで初マラソンの日本記録を作って6位入賞を果たしました。そして、翌年の大阪国際女子マラソンで日本最高記録を更新。同年夏に東京で開催された世界陸上への出場が決まり、オリンピックが具体的な目標になりました。
世界陸上では山下佐知子選手が銀メダル、私が4位入賞。この結果、最初の選考問題が起こることになります。
当時は明確なオリンピックの代表選考基準がなく、世界陸上が選考レースであると明言されていたわけではありません。というのは、世界大会で2人も上位に入るとは予想されていなかったからです。ところが自国開催で大変なインパクトを与えた世界2位の選手を代表にしないわけにはいかないと、山下選手は内定。4位の私は日本記録保持者でもあり、有力候補ということになりました。
その後、代表を確実にするため、私は大阪国際女子を走るつもりでした。でも、故障で走れず、小鴨由水選手がダントツの日本最高記録で優勝、松野明美選手も日本最高記録で2位に入り、選考問題が注目されました。
しかし私にできることは、代表に決定する前も後も、とにかく故障を治して頑張って練習することだけ。自分の調子が悪ければ、応援されるのは重荷になりますが、調子さえしっかりしていれば、応援は嬉しいものです。代表に選ばれた私は、周りの期待をプレッシャーとは感じませんでした。ただ、選ばれたからには、やるべきことをきちんとやり、自分の走りをしなければという思いは強くあり、練習に励みました。
ハプニングにも負けず
無心で走ったバルセロナ
写真提供:アフロスポーツ
バルセロナオリンピックではいろいろとハプニングがありました。その一つが当日の朝、ホテルでコンタクトレンズを片方なくしてしまったこと。スペアはありません。視力は0.05以下ですから、片方なりともつけないことには何も見えません。左右のバランスが悪くて気持ち悪かろうと、まったく見えないよりは少しでも見える方がましです。
とにかく落ち着けと自分に言い聞かせ、何が見えればいいかと考えました。まずコースが見えればいい。後は給水所で自分のボトルが見えればいい。その他は何も見えなくてもいいとの判断でレースに出場しました。スタートラインに立った時のことは何も覚えていません。逆に、見えたもののことはよく覚えています。サグラダ・ファミリア、横を走っていた山下選手の様子、給水所。でも、片方の目で不便だったことは何一つ覚えていません。本当におもしろいものです。
このように見えなかったこともあり、私は最初にロシア勢が飛び出して先頭集団を築いたことを知らずに走っていました。次第に私のいた第2集団がバラけ、前の選手たちが落ちてきて、私が最後に拾ったのがマディナ・ビクタギロワ選手(ロシア)でした。彼女が先頭だと思っていた私は「すごい、先頭にきちゃった。でもこんな甘い話はない。ここで気を抜いてはいけない」と、そこからはとにかく逃げろ、逃げろと走っていました。ちょうどこのあたりで狭い路地が続いていたマラソンコースは大通りに出ました。そこで前を行く中継車がスーっと脇に寄ったのです。すると前方に小さな動くものが見えるではありませんか。「自分が先頭じゃない!」。私は先を行くワレンティナ・エゴロワ選手(ロシア)を猛追。これで力を使い果たしてしまいました。
ゴールした時は順位のことは頭になく、「やったあ」という思いだけでした。銀メダルを実感したのは、表彰式後、ホテルに戻って鏡を見た時です。メダルを掛けたまま鏡に映る姿を見て「ああ、メダルを獲ったんだ」と思いました。
自らにメダル獲得を課して
臨んだアトランタ
写真提供:アフロスポーツ
その後、アトランタまでの4年間は大変でした。まずは少し休みたいと思いましたが、エゴロワ選手のすごく安定した走りが刺激になり、モチベーションは失っていませんでした。同じ42.195kmを、あのモンジュイックの丘を走ったとはとても思えないぐらいのバランスのいいフォーム、重心移動の素晴らしさ。自分もそんな筋力を身につけたい。それにはウェイトトレーニングをしたい。さらに上を目指していろいろな環境を求めたいと思いました。
ところが周りは、またみんなで足並み揃えて一から頑張ろう、というトーンだったのです。メダルを獲り、そこでさらに自分を高めようと望んだ私は、わがままだ、女王様だと言われるようになりました。
メダルが嬉しいものとなって生きていけないのはなぜ? オリンピックのメダリストってそんなに厄介な存在なの?私は自分が間違っているのか、組織が間違っているのかわからなくなりました。しかも、疲れから体はガタガタで足の痛みも悪化し、記録は落ちる一方。これでは誰も私の話など聞いてくれません。どん底状態で、迷い道を歩いているようでした。
そこで転機になったのが足底筋膜炎の手術です。完治するかどうかよりも、自分が本当に走りたいのか走りたくないのかを確かめる最善の方法でした。手術は成功。病院には、普通に生活ができないという悩みで入院している人が大勢いました。それに比べて自分はチャンスを持てるラッキーな人間なんだ——このことに気づいた私は、とにかく早く走りたいと、翌1995年夏の北海道マラソンの出場を決めました。
北海道マラソンはアトランタオリンピックの選考レースになっていて、私はいい意味で予想を裏切り、大会記録で優勝。選考条件をすべてクリアし、再び選考問題はありましたが、代表に決定しました。
この時の私は、誰が望まなくても絶対にオリンピックに出なければならなかったし、何色でもいいからメダルを獲らなければならないと思っていました。人にちゃんと自分の言葉を聞いてもらうためには、過去の実績ではなく、今の明確な実績が必要でした。だから、私にとってのアトランタは、メダルを獲らなければ自分の生き方が前に進まない、というオリンピックでした。
それは精神的に非常にしんどいものでした。もう二度と他の選手にこんな思いをしてほしくない。だから、あの「自分で自分をほめたい」という言葉が出てきたのです。単に銅メダル獲得という結果から出た言葉ではありませんでした。オリンピックは出場してメダルを獲ることがすべてではありません。あくまでも手段であり、ゴールではないのです。後輩の皆さんには、オリンピックをきっかけに、さらにはオリンピックメダルを活かして、その先の自分の生き方を輝かすことまで考えてほしいと思います。
必死に夢や目標を追うことの
素晴らしさをオリンピックから伝えたい
今、私は2016年の東京オリンピック招致大使を務めています。オリンピックはスポーツをする、しないに関係なく、人々にさまざまな影響を与えるものだと思います。例えば、感動を与え、人を元気にし、必死に夢や目標を追うことの素晴らしさを伝えてくれます。
それはまた、テレビを通して見るよりも、現実にその空気の中で見た方が感じるものは大きいし、残せるものも大きいはずです。実際、私はアトランタオリンピックの時、兄の子供たちを現地に呼び、そう感じました。オリンピックを日本に呼ぶことで、今の日本の人たち、特に子供たちに、もう一度人間のウソのない、必死に夢を追うことの素晴らしさ、本物の素晴らしさを感じるきっかけを作りたいと思います。
ただ、世の中の人すべてがスポーツに、オリンピックに興味のある人ばかりとは限りません。だから、東京という街をオリンピックのためだけに、ああしよう、こうしようと計画を立ててお金を使う形にはしたくありません。それでは本末転倒です。東京はこういう街になりたいし、誇れるようになった街にオリンピックを呼びたい。そう働きかけることで東京の人たちが、日本中の人たちが盛り上がっていくことを願っています。
1966年岡山県生まれ。女子マラソンでバルセロナオリンピック銀メダル、アトランタオリンピック銅メダルを獲得。2007年2月、東京マラソン2007でプロマラソンランナーを引退する。1998年にNPO「ハート・オブ・ゴールド」を、2002年4月にアスリートのマネジメント会社「ライツ」を設立。現在、国際陸上競技連盟女性委員、日本陸上競技連盟理事、国際人口基金親善大使などを務めている。
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