オリンピアンズ・ストーリー
シドニーオリンピックで銀メダルを勝ちとり、「世界一のショートストップ」と呼ばれた安藤選手。ソフトボールがオリンピックの正式競技から外された状況に自らの経験を重ね、競技に取り組む姿勢や後輩に送るメッセージを語ってくれました。
正式競技に復帰したとき実力を発揮できる準備を
かすりもしなかったボールをバットに当てることだけを考えて
私が高校生の時は、ロサンゼルスオリンピックやソウルオリンピックの成功で、スポーツ界はとても盛り上がっていました。中でも女子の競技ではバレーボールの人気が高かったので、高校生でも日頃の練習からオリンピックや世界を意識していた選手がいたかもしれません。しかし私が打ち込んでいたソフトボールは、当時はまだマイナーなスポーツ。オリンピック競技にはなっていなかったので、オリンピックに憧れるということはなく、ただ「ソフトボールが大好き」という気持ちだけで練習に臨んでいました。
私が初めて世界を体験したのは高校2年生のとき。トップ代表ではありませんでしたが、JAPANのユニフォームを身につけ、海外で親善試合を行いました。当時は外国で目にすることのすべてが珍しく、世界レベルのソフトボールを実感する余裕など、まったくなし。「世界にはまだまだ上のレベルがあるんだなぁ」と、漠然と感じた程度でした。
真の意味で世界との差を実感したのは社会人になってから。1989年のジャパンカップあたりからです。当時の日本のレベルはまだまだで、国内では見たことのない鋭い変化球にバットがかすりもしませんでした。「世界に挑戦」どころか、まるで人間じゃない別の生き物と戦っているような、そんな感覚だったのです。
その頃には、ソフトボール界全体で海外遠征や強化合宿に力を入れようという動きが出ていました。私はただ、与えられた環境の中で精一杯練習し、今以上に技術を向上させることしか頭にありませんでした。かすりもしなかったあのボールをバットに当てる——ただそれだけを考えて練習に打ち込んでいました。
練習相手は、日本の男子チームでした。ちょうど世界トップのアメリカ女子チームと同じくらいのレベルだったので、ずいぶん協力してもらいました。そのうち、男子のボールがバットに当たるようになりました。たとえ真芯で捉えられなくても、前にボールが転がりさえすれば、何が起こるかわからないのがソフトボール。当時はそれだけで大きな進歩だったのです。
プレーに対する責任が曖昧になりがちな団体競技
1991年にソフトボールがアトランタオリンピックの正式競技に決定したときは、言葉では言い表せない気持ちでした。まったく予想していなかったことなので「えらいこっちゃ」と。何しろ前例のないことなので、とにかく「今できることを精一杯やろう」「当たって砕けろ」と、それしかありませんでした。代表ではキャプテンを務めることになりましたが、インタビューを受けるたびにそう話した記憶が残っています。
アトランタオリンピックの予選は、1994年にカナダのセント・ジョンズでの世界選手権からスタートしました。マスコミは、この大会で簡単に出場が決まるだろうと予想していたようですが、結果は7位。オリンピックへの出場が危うい状況に陥りました。当時、私たちは特別に浮き足立っていたわけでもなく、油断していたわけでもありません。とにかく目の前の試合をひとつずつ戦い抜くことしか考えていませんでした。それでも、結果は惨敗。やはり、初めての経験だったということに尽きると思います。
チーム全員が「ゲームに勝つ」という一つの目標に向かってまとまってはいましたが、今振り返って考えてみると、目標を達成するための役割分担を選手一人ひとりが徹底し切れていなかったような気がするのです。私自身も含めて、選手の「個」としての責任能力が低かったのではないか、と。ここが団体競技の難しいところなのですが、世界で勝負するときには、自分に与えられている役割とか、自分がやったことに対する責任を、一人ひとりがしっかり持ってプレーしなくてはならないのです。良くも悪くもごまかしが利くのが団体競技です。仮にチャンスで自分が凡退してしまっても、次の打者がランナーを返せばチームは勝てる。だからこそ、選手一人ひとりが自分の出した結果に対して、自分自身でしっかり分析して反省ができないと、いずれはチームとして機能しなくなってしまいます。
オリンピックの予選などで日本を代表して戦うには、一つひとつのプレーの瞬間に自分が最大限の力を発揮することに対し、個々がしっかりと責任を持たなければいけません。状況をきちんと考えて渾身のプレーをすれば、失敗したとしてもリカバーできるので、それほど大きな痛手にはならないのです。
「日本は世界で4番目」と神様に言われた気がした
世界選手権で敗れた日本がオリンピックに出場するためには、翌1995年のアジア・オセアニア地区最終予選を勝ち抜く以外ない、という状況になりました。このとき幸いだったのは、代表チームが前の大会の結果を引きずらず、すぐ次の目標へと切り替えられたことです。チーム全体が明るく前を向いて、「とにかく目の前の試合すべてに勝つ!」という強い気持ちで戦いました。名目上は私がキャプテンでしたが、このチームでは全員がキャプテンの自覚をもって戦っていたと思います。予選を全勝で通過し、最後はニュージーランドとの一騎打ち。相手がどこだろうと関係なく「自分たちがオリンピックに行くんだ!」とだけ念じて、2勝すれば出場権が獲得できる3試合制のプレーオフの勝負に挑みました。その結果、1戦目をサヨナラ勝ち、2戦目も1点差で競り勝って、出場権を獲ることができました。
オリンピック本番では、予選リーグで強豪の中国を破って3位通過できましたが、本戦でオーストラリアに敗れ、メダルを取れるかどうかはオーストラリア対アメリカの結果次第となりました。両方のチームと対戦した者として、頭一つ抜きん出ている最強チームのアメリカが格下のオーストラリアに負けるなんて、まったく考えもしません。アメリカが順当に勝って日本が銅メダル獲得…というシナリオはほとんどできあがっていたのです。ところがこの試合でアメリカは敗れました。初めてそのニュースを聞いたときは、驚きで声も出ませんでしたが、後から事情を聞いて愕然! なんと、同点で迎えた7回に、アメリカの選手が打った勝ち越しホームランが、ホームベースの踏み忘れでノーカウントになったというのです。その結果、銅メダルはオーストラリアのものになりました。
私もそのときは一瞬「なんで?」と憤りましたが、すぐに冷静になって、なぜそんなことが起こり得たのか、自分なりにいろいろと考えました。オリンピックには魔物がいると言われているけど、本当にこういうことってあるんだなぁ、と。そして、オリンピックの神様が「日本にはメダルはまだ早いよ」と言っているように感じられました。4位という結果にも、「今の日本は世界で4番目なんだぞ」と。
協会や関係者の方々は復活に向けて今日も努力している
(写真提供:アフロスポーツ)
アトランタから帰って来ると、休養後すぐに実業団のチームに戻って、普段通りの練習を始めました。オリンピックに出られたのは、普段から一球一球に集中して全力でプレーした結果です。次のシドニーオリンピックに向けても、国内の大会でコンスタントに結果を残すことが何より重要だと考え、さらに高みを目指すために、自分の弱点である打撃力の強化を図りました。
シドニーオリンピックでは、予選で日本は強豪のアメリカに勝って全勝し、準決勝では因縁のオーストラリアにも勝って、大会前の予想通りアメリカとの再決戦での決勝戦となりました。リードしていた日本は、延長8回に勝ち越され、1−2で敗れて銀メダルでした。
実力を出し切ったとは思いますが、私にあとちょっとのガッツが足りなかったのだと思います。なぜなら、私は予選で全勝した時に、特にアメリカ戦で、私自身納得のいくプレーができた——というより、できてしまったからです。高校時代から長年、国際大会でプレーしてきて、アメリカに勝ったのは初めての経験だったので、それで少しだけ満足してしまったのだと思います。そういうちょっとした気持ちの揺らぎが、決勝に影響したのかもしれないと、今は思うのです。
シドニーから帰国した後は、選手として以外にも指導者として期待される部分が大きくなってきて、自分自身の練習に100%の力を注ぐことができなくなりました。代表をあきらめるつもりはありませんでしたが、少し中途半端な気持ちになっていた部分もあり、アテネオリンピックの代表から漏れたときも冷静に受けとめることができました。
私はオリンピックの正式競技になる前から、ただ「ソフトボールが好き」という気持ちで長い間競技を続けてきました。そして幸いにも日本代表に選ばれ、メダルも獲ることができました。日本のレベルがここまで向上したのは、オリンピックが私たち選手はもちろん、ソフトボールに関わるすべての人々に夢と希望を与えてくれたからに他ならないでしょう。
2012年のロンドンオリンピックでは、残念ながらソフトボールがオリンピック競技から外れることになりました。しかし、いつ、どのタイミングで復活しないとも限りません。私たち選手や指導者は、その日がいつやってきても大丈夫なように、日々努力をしてしっかり準備しておく必要があります。後輩たちには「ソフトボールが好き」という大きな気持ちを原動力にして、日本の競技レベルをさらに向上させて欲しいと思います。そして再びオリンピックの舞台に立ったときには、充分に実力を出し切って、“世界一”の夢をつかんでほしいと願っています。
1971年生まれ。岐阜県出身。1996年アトランタオリンピック4位、2000年シドニーオリンピック銀メダル。華麗な守備で「世界一のショートストップ」と呼ばれる。2005年に湘南ベルマーレ女子ソフトボールチームを発足させ、2006年には日本リーグ2部に加入。現在もプレイングコーチとして現役生活を送っている。
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