オリンピアンズ・ストーリー
- スポーツの価値を守れる社会に -
前回大会から72%も増えたトリノでの検体数
少し前の話になりますが、昨年10月29日からマカオで行われた第4回東アジア競技大会(2005/マカオ)で、アンチ・ドーピングのプレゼンテーションをして来ました。これはコーチや監督など、指導者に向けたもので、私自身の選手時代の経験や引退後のアンチ・ドーピング活動、教育の意義、指導者として何をすべきかなどについて話し、最後にみなさんの力でPlay Trueを広めていきましょうと結びました。このような活動は地味ではありますが、長く続けていくことが大切だと思っています。
先日のトリノ冬季オリンピックの開会式では、IOCのロゲ会長があいさつの中でドーピングのことに明確に触れていました。それだけ問題は大きく深刻なのだと痛感しました。残念なことに今回のオリンピックでも、ドーピング検査で陽性だったり疑われたりした話題が大きく取り上げられ、オーストリアのクロスカントリーとバイアスロン選手に疑惑がかかった件は(バイアスロンの2選手は、その後引退を表明)、非常に大きく報道されました。
トリノ冬季オリンピックではドーピング検査の全体数が1,219検体と、前回のソルトレークシティーに比べ72%も増えています。また、現在は検査が非常に進歩していて、以前に比べて検出精度が飛躍的に上がっています。もはや通常の食事として食べた牛肉の残留ホルモンが検出されるのではないか、と心配する声が上がるくらいなのです。
これまでも、ドーピング検査で禁止薬物が検出されてメダルを剥奪された例はいくつかありますが、メダルを獲れば必ず検査をしなくてはなりません。検体数の増加と検査精度の向上とを考えれば、「うまくすり抜けられるかもしれない」などという考えは、無謀というものでしょう。このように、ドーピングへの包囲網はどんどん狭まっているのです。
何でも簡単に入手できてしまうことに危機感を
国立スポーツ科学センター(JISS)の統括研究部長で倫理委員会委員長の川原貴先生によると、これまで日本のスポーツ界にドーピングがそれほど蔓延しなかったひとつの理由は、メダルを獲得しても一生不自由なく暮らせる莫大な富を得られることにつながらない点、もうひとつは、少し前まではケガをしたときに医者にかからずに、トレーナーや鍼灸師に診てもらっていて、医科学とスポーツが密着していなかったということが挙げられるそうです。ところが今はインターネットなどの発達により、情報も知識も物も簡単に入手できるようになりました。だから選手自身も、身の回りにあふれる情報に対し危機意識を持たないといけない、ともおっしゃっていました。
JADAの活動の一環で、私たちが進めている教育や啓発のひとつとして、競技会と競技外でのドーピング検査がどのように行われるのか、その手順を解説するDVDを作成中です。冒頭と終わりの部分には「私たちはドーピングに反対します」と数名の選手からコメントをもらうことになっています。その打診をアーチェリーの山本博選手にしたところ、コメントだけではなく、検査を受ける選手役をやらせてほしいと、自らボランティア出演を買って出てくれました。現役の選手でメダリストが出てくだされば、DVDを見せようとする監督やコーチ、学校の先生のモチベーションが上がり、見せる機会も増えるでしょうから、ありがたい話です。できあがったDVDは、JOCや各競技団体、日本体育協会、各県の体育協会に無償で配布します。コピープロテクトはしませんし、ホームページにもアップするので積極的にコピーを作ってどんどん広めてほしいと思っています。
子供たちにスポーツの価値を広く教えるために
さらに、JADAでは10歳程度の子供たち向けの冊子を制作中です。「スポーツの価値ってなんなの?」という、基本的な部分をクローズアップし、生徒用と先生用を別編集するなど、学校の授業で副読本として使ってもらえるような体裁を考えています。子供たちが大きくなって世界を相手に競うとき、スポーツの価値を守るためになぜアンチ・ドーピングなのか、その価値とは何なのかを小さいうちに教えておかないと、ドーピングはスポーツの価値を下げるものだと思えない人になってしまいます。そうならない心を持った人に育てるための教材です。
旧来のアンチ・ドーピング教育は、どちらかというとドーピング検査に対応するための教育が中心で、検査の受け方やうっかりドーピングをしない心構えを教えることが大部分でした。その教育を受けた選手がコーチになったとき、検査に関しては教えられても、本来のスポーツの価値ということを教えるのは、おそらくむずかしいでしょう。でも私たちにとっては、その部分をわかってもらうことがとても大事なのです。きっと普段からコーチが「スポーツの価値」を高めるためのメッセージを発信していれば、子供たちも自然に受け入れると思います。そういう環境ができるまでは、この先何十年と気長に取組まないといけないでしょう。ドーピング反対という意思表明をスポーツのヒーローやヒロインであるトップアスリートが表明してくれることは、一般からの注目度が高く、最も効果的な方法のひとつだと思っています。
今年の兵庫国体では、アウトリーチ・プログラムの国内版を行う予定です。
現地のブースにパソコンを設置し、ポスターなどの掲示とともにパソコン上でドーピングクイズができるようにします。今年の国体から、種目によって中学3年生が出場できるようになったので、高校生より下の学年にも訴求できるいい機会だと考えています。
自発的にアンチ・ドーピングについて知りたい場合は、WADAのサイトにあるクイズがおすすめです。日本語でもできますので、ぜひトライしてみてください。
急がれるアンチ・ドーピングの法整備
昨年10月、国連教育科学文化機関(ユネスコ)総会で、スポーツ競技選手らのドーピングの予防と撲滅を目指す「反ドーピング条約(ユネスコHPより)」を全会一致で採択しました。
これは各国政府もドーピングに関してきちんと対応していきましょうという、初の世界的な政府間条約です。ただ、現在のところ正式に政府が態度表明している国はカナダ、デンマーク、アイスランド、モナコ公国、ノルウェー、スウェーデン、オーストラリア、クック諸島、ニュージーランドにとどまり、アフリカとアジアはゼロというのが現状です。
国によっては日本のように国会を通す必要があったり、アメリカのようにそれぞれの州で状況が異なったりと、まだまだ時間はかかるでしょうが、このままでは国際的世論の中で評価されない国になってしまいます。
この条約は、「ドーピングが競技選手の健康をはじめ、フェアプレーの原則やスポーツの将来に重大な影響を及ぼしていることを懸念し、その撲滅を目指して、世界反ドーピング機構を中心とした協力活動を推進、強化する体制を確立するのが目的」というものですから、2016年のオリンピック招致を考えている日本としては、一刻も早く態度表明をする必要があると思います。
アンチ・ドーピングは、スポーツ本来の価値を見直すということです。自分たちが今いるスポーツの世界を自らが汚せば、社会から認められなくなってしまいます。スポーツから得られる価値は、言葉を超えて言い尽くせない感動の世界です。この価値を大切に考える社会を作り、それを次の世代へと広めていきましょう。それが、オリンピック・ムーブメントにもつながっていくのです。
1966年(昭和41年)東京都出身。日本大学卒業。1992年バルセロナ大会と1996年アトランタ大会の柔道女子72kg級に出場し、両大会で銀メダルを獲得。
現在日本大学法学部講師、日本大学柔道部女子監督。
日本オリンピック委員会評議員、アスリート専門委員会委員、女性スポーツ専門委員会委員、アンチ・ドーピング委員会副委員長。
日本オリンピアンズ協会理事/日本アンチ・ドーピング機構理事/世界アンチ・ドーピング機構アスリート委員会委員
- 有森裕子(陸上競技)
メダルの価値は、後の人生が輝いてこそのもの - 安藤美佐子(ソフトボール)
正式競技に復帰したとき実力を発揮できる準備を - 鈴木大地(競泳)
感動と興奮へのチャレンジ - 萩原智子(競泳)
人として大切なこと…… - 八木沼純子(スケート)
スポーツと報道 - 三ヶ田礼一(スキー)
ウインタースポーツと環境問題
スキー人口増加を目指して
トリノ冬季オリンピック、そして人との出会い - 田辺陽子(柔道)
Play Trueの輪を広げよう1|2
アスリートとアンチ ドーピング
スポーツの価値を守れる社会に - 山本博(アーチェリー)
遠征の心得その1「移動の心得」
遠征の心得その2「ホテルでの心得」
遠征の心得その3「選手村での心得」