オリンピアンズトーク
川崎努さんはアルベールビル大会(第15回オリンピック冬季競技大会/1992年)において、スケート・ショートトラック・男子5000mリレーで銅メダルを獲得。赤坂雄一選手、石原辰義選手、河合季信選手とのチームで獲得したメダルだった。
スケートとの出会い
「僕が初めてスケートを経験したのは、地元の水戸市(茨城県)にあったスケート・スポーツ少年団で、小学校3年生の頃のことです。当時の子供たちの間では野球の人気が凄くて、リトルリーグに入って野球をする子供たちばかりでした。でも自分は球技が苦手で、野球をする気にはならず、迷わずスケート・スポーツ少年団に入団しました」
そのスケート・スポーツ少年団で、川崎さんは氷上に立ち、滑ることを覚えた。年に一度、シンクロナイズド・スケーティングのように、全員で隊列を組んで走るという発表会があり、それが楽しくてスケートの虜になったのだそうだ。
そして小学校5年生の頃に、氷上での大きな出合いがあった。「僕が滑っていたスケート場で、夜間にスピードスケートを専門に教えるクラブがあることを知りました。それは水戸スケートセンター・スピードクラブといって、そこでは僕より年下の女子が、綺麗なスピードスケートのフォームで見事に滑っているわけです」
「その時まで、自分は氷上で前にも後ろにも滑れて、スケートが上手だと思いこんでいました。ところがそうじゃない。今まで自分がやってきたのは何だったのだろうと思うほどでした」その時から、川崎さんのスピードスケートへのチャレンジが始まった。
オリンピックを目指して
1986年、川崎さんが高校2年生の頃、2年後に控えたカルガリー大会(第14回オリンピック冬季競技大会)において、それまで川崎さんが打ち込んできたショートトラックが公開競技として行われることを知った。「それは競技者として嬉しかったのですが、同時に迷いもありました。翌年には高校3年生となって卒業後の進路の問題があったからです」
東京の大学に進むことは川崎さんの目標とするところであった。しかしショートトラックにさらに打ち込み、オリンピックを目指すことも選択肢のひとつとして気持ちの中に大きく浮上してきた。
「本当に迷いましたが、やはりショートトラックが公開競技となるカルガリー大会を目指すことを決意しました。それからというもの、あまり好きではなかったランニングなどの陸上トレーニングも真剣にこなすようになりました。トレーニングにおいて自分に嘘をつきたくなかったのです」
そしてカルガリー大会の日本代表選手の一員となった川崎さんだが「確かにナショナルチームの一員として、揃いのユニフォームを着てカルガリーに赴いたのですが、公開競技の選手ということで選手村への入村は許されなかったですし、日本代表選手団は全員参加が前提とされていた開会式にも、ショートトラックからは3人ほどしか参加できず、それは中途半端な立場で悔しかったですね」
その時すでに、川崎さんの気持ちは4年後のアルベールビルへと向いていた。
2000年、ショートトラック男子1000mの世界選手権で優勝し、ワールドレコードを打ち出した川崎さんは、いち早く2002年のアルベールビル大会の代表選手に内定した。「それでもアルベールビル大会でメダルを獲得するには、1ランクも2ランクも上を目指さないといけない」と自らを戒めた。
高校卒業後、スケートに理解を示す帝産オート(株)に所属し、ホームリンクでの調整に明け暮れた。「ちょっとトレーニングを自らやり過ぎたきらいがある」という川崎さんは、アルベールビル大会では男子1000mと男子5000mリレーに出場。1000mではコースの外側に残された砂にエッジが噛み、準々決勝に進出するも16位と不本意な成績に終わった。
体力の限りを使って、メダルの獲得へ
日本代表選手が出場する最後の種目となった5000mリレーでは、くじ運の悪さが影響した。午前・午後でひと組づづ、計2組が戦い、それぞれの上位2チームが決勝に進出するという、ここまではごくあたりまえの競技進行であった。しかし午後の予選が終了した直後に決勝が行われることとなり、午前と午後のどちらで走るかにより、出場選手の体力には大きな影響が出ることとなった。
日本チームは午後の予選で決勝に残った。予選で体力の限りを使って戦った川崎さんの疲労は大きかった。「それまでのトレーニングで、心臓が止まるまで走るぞ、という精神的な、また肉体的な自信はありましたが、それにしても疲れはひどいものでした」という。
アルベールビル大会におけるショートトラックの柏原幹史コーチは、川崎さんの体力の消耗を見て「決勝を走れるのか」と問いただした。1000mを戦い終え、そして5000mリレーの予選を走り切った川崎さんは、想像以上の疲れがあることを自らが一番よく知っていた。反論はできなかった。
その時、5000mを戦うチームメートである先輩がコーチに言った。「控えの選手と川崎の走る力が一緒なら川崎を使って欲しい」それには大きな意味があった。5000mを走る4人の選手は、リレーをするたびに、次に走る選手にタッチすると同時に押し出すというショートトラックならではのリレー方法があった。
押し出すというリレー方法はチームワークが全てとなる。チームは共にトレーニングを続けてきた川崎さんに最後の力を振り絞ることを要求した。「5000mリレーですと、多少の違いはありますが、1人の選手が7〜8回リレーを行います。先輩たちの後押しで決勝を戦いましたが、3回目のリレーの後 、本当にきつさを感じました。それでも観客席の日本語での応援が耳に飛込んできて必死の思いで走りました」
トップを走る韓国チームと、それに続くカナダチームには、どうしても日本は追い付かず3位を狙った。日本のメダル獲得の前にニュージーランドが立ちはだかった。3位を守りつつも川崎さんのところで抜かれ4位に転落。しかしこれこそが日本の戦略だった。 日本チームは川崎さんの走りがメダル獲得への絶対的な条件と判断。「抜かれても良い、直ぐに抜き返すから」という言葉が先輩から川崎さんに伝えられた。「ただしラストタッチだけは3位で帰ってこい。それまで体力を温存しろ」
作戦通りの試合展開となった。ラストタッチ。川崎さんは最終の周回では3位を守り抜いた。この作戦を知らなかったテレビ中継では、途中の周回で「川崎が抜かれました。川崎大ブレーキです」とアナウンサーの声が響いた。 作戦を知らなかったとはいえ、後からビデオを見た川崎さんは「大ブレーキ」という一言に苦笑いをするしかなかった。
ウォーミングアップは笑顔で
苦しみ抜いた中でのメダル獲得。これが川崎さんのアルベールビル大会の印象である。「ショートトラックは、選手間のちょっとした接触で転倒するなど、思いがけないアクシデントがつきまといます」さらに「僕はウォーミングアップでリンクに出た時、意識的に笑顔を絶やさないようにしてきました。笑顔で外国のライバル選手に近づき、食事はどうだった?、調子はどう?と話し掛けるわけです」
「この笑顔での会話がなければ、ショートトラックでは試合中に何が起こるかわかりません」ライバルと少しでも気心を通わせておけば、試合中のトラブルは少なくなるというのが世界選手権覇者、そしてオリンピック・メダリストである川崎さんの持論。同時にそれは試合前に自らをリラックスさせる方法でもあったのだそうだ。
「でもウォーミングアップが終わり、本番直前に控え室に戻ったら笑顔なんてありません。一気に緊張感が高まっていきます。それはどの選手も同じ。スタートしゴールし終わるまで続きます。そんな時は誰も話し掛けられませんよ」 さらに「ショートトラックは1日に何試合もこなさなければならない種目です。1日中緊張感を保つなどということは不可能です。笑顔で世間話をする時と気持ちを一気に高めていく時自在に使い分けるようになることが大事ですね」
小学校5年生でスピードスケートと出会い、チャレンジを続けた川崎さん。
笑顔でウォーミングアップを行うことは、自らのリラックスに加えて、他の選手に「余裕」見せつけることにもなると語った。「調整は万端、後は走って勝つだけ、という雰囲気をライバルたちに見せるわけです」世界選手権、そしてオリンピックで勝つために自らが考え、そして学んだ「駆け引きの極意」がスタート前のリンクにあった。
昭和44年6月13日生
身長171cm/体重75kg
1990年 世界ショートトラック・スピードスケート選手権大会出場
1992年 第15回オリンピック冬季競技大会(アルベールビル)ショートトラック・スピードスケート日本代表選手