オリンピアンズトーク
オリンピックのロサンゼルス大会とソウル大会において、レスリング・フリー90kg級で銀メダルを獲得した太田章さんは、現在早稲田大学のスポーツ科学部で助教授を務められています。中学生時代には柔道で秋田県を制覇。高校生となってからはレスリングに転向。早稲田大学の学生時代には、監督・コーチ不在の中1977年から全日本大学選手権三連覇。加えて早稲田大学在学中にモスクワオリンピックの代表選手に選ばれるものの、日本は不参加。しかしその1980年から全日本選手権において五連覇。加えて1988年、1989年、1992年にも全日本選手権を制覇。
自らのレスリングスタイルは、力に頼るのではなく、柔らかさと技とバランスにあり。2度3度と引退・復活を繰り返す中、1999年の世界ベテランズ選手権94kg級で見事金メダルに。
大学での研究、論文発表、担当授業、ゼミ合宿をこなしながらオリンピック出場。そしてメダリストに。
担当授業の休講はいっさいせずに、オリンピック出場。そしてメダルの獲得
太田さんが日本代表選手としてオリンピックへの出場権を得たのは、モスクワ大会、ロサンゼルス大会、ソウル大会、そしてバルセロナ大会の計4大会。
しかしモスクワ大会については日本は不参加。多くの代表選手が悔し涙を流す中に、太田さんの姿もありました。
その4年後のロサンゼルス大会が太田さんにとってオリンピック初舞台となりました。そして見事銀メダルを獲得。強いと言われ続けた日本のレスリング界にとって、重量級では初のメダリスト誕生となりました。太田さんは「それは嬉しかったです。でもロスアンゼルス大会には共産圏は参加していませんでしたので、だからメダルを獲得できたのではないかと言われたこともあります。その意味では辛い思いをしたことも事実です。自分の中ではソビエトやアメリカなど全ての国が揃った大会で戦いたいと思いました」と振り返ります。
ロサンゼルス大会に続き出場したソウル大会。ご本人曰く、「当時31歳、選手としてのピークも過ぎ、子供も3人いて、さらに大学での授業も持っていて、いっさい休講もせず全授業とゼミ合宿などをこなした上でのオリンピックでしたので、けっしてメダルを狙いにいった大会ではありませんでした。敢えて言うならば普段通りの生活をしながら、意地で挑んだオリンピックですね」
しかしながら、再度メダルを獲得。西側諸国と当時の東側諸国が揃った大会での念願のメダル獲得となったのです。
監督・コーチ不在の中で・・・
秋田県出身の太田さんは、中学生まで柔道に熱中。その実力は秋田県NO1の座にまで上り詰めていました。しかし高校生時代にレスリングの世界へ。「熱烈な柔道ファンの父親からは猛反対を受けましたね」
それでもレスリングにかける情熱は強く、早稲田大学に進学後も監督・コーチなど不在のままレスリング部の一員としてトレーニングに明け暮れたそうです。
「一対一のコーチングを受けたことはありませんでした。当時早稲田のレスリング部は強くはありませんでしたし、練習試合の対戦相手にも恵まれず、部員同士でも練習相手がいなくて困るような状況でした。それで友だちを頼って他の大学へ出稽古に向かい、そこで学ぶこと、吸収することが多くありました。前向きに取り組む姿勢と気持ちがしっかりしていれば、強くなれると考えていました」
現在、早稲田大学でトップパフォーマンス・コーチングという授業を持ち、コーチの重要性を学生に教える太田さんですが、自らにはそのコーチがいなかったのです。「学生時代、自分で自分をマネージメントし、科学し、コーチングすることを学んでいきました。休養を必ず取り入れながら自分の体に合ったトレーニングを科学的に行うわけです」
Repetition(繰り返し)、Resistance(負荷)、そしてRest(休養)。これらの頭文字をとった3Rは、選手にとって重要なことだと太田さんは講演などで強調されています。選手がトレーニングにおいて繰り返し負荷をかけることで、肉体的にも精神的にも成長していくわけですが、加えてもっとも重要なことが休養なのです。
ところが多くの選手は、休養を疎かにしすぎると太田さんは指摘しています。怪我をしても休めない状況を作ってしまい、自らを追い込んでしまうわけです。3Rをいかにバランスよく取り入れるか、それは選手生命をも左右する重要なテーマだと言えます。
最高のパフォーマンスを発揮するために
太田さんはご自身の性格を踏まえ、「気持ちを高めて試合に臨んだとしても、緊張するのは試合前、試合中を含めて、技をかける一瞬だけでいいわけです。試合中でも対戦相手と離れている時は、緊張する必要もないわけです」加えて「リラクゼーションは、あくまでも気持ちの持ち方と言えます。音楽を聞いたり、テレビを見て笑ったり、感動して泣いたりと、日常の中に喜怒哀楽を求めることが自分にとっては非常に大切なことですね」緊張の必要の無い時、一気に緊迫する時、その気持ちの切り替えが重要なのだそうです。
またオリンピックに臨まれた当時を振り返られ、特に最後のオリンピック出場となったバルセロナ大会では「4回目のオリンピックともなれば、この大会で負けたらどうなるとかは考えなくなります。若い選手は負けたら4年後に再挑戦できるのかどうかもわからないわけですから、それは緊張すると思います。しかし自分の場合は、どうやったら最高のパフォーマンスが発揮できるか、それだけを考えるようになっていました」そしてパフォーマンスを出し切るためには「リラクゼーション」が必要だったと言います。
「明日の試合の負けを考えたりせず、この一瞬は自分の勝利に繋げるためにあるのだから、いかにして今の自分をリラックスさせるか、いかにして美味しく食事を取るか、いかにしてぐっすりと眠ろうかと考えるわけです。ポジティブに考えることで気持ちがやすらぐわけです」
「ポジティブに物事を考えられないと、持っている実力は100%発揮できません。しかもオリンピックのような大舞台では、多くの選手は持っている力の半分も出し切れないで終わってしまうものです」
引退と復活を繰り返してきたと笑う太田さんですが、オリンピックでの2個の銀メダル獲得の喜びは言うまでもありませんが、今、太田さんにとって最高の勲章となっているのが、世界ベテランズ選手権での金メダルなのだそうです。
「バルセロナ大会が終了した後、1996年のアトランタ大会を目指しましたが出場は果たせませんでした。その後1998年にボルドーで開催された世界ベテランズ選手権に軽い気持ちで出場して、5位という成績に終わってしまいました。悔しかったですよ。それで翌年の同じ大会を目指して、節制とトレーニングを行って94kg級に再挑戦したわけです」
1999年にブカレストで行われた同大会で、ついに表賞台の最上段に。金メダルを授与された表賞台での写真は、早稲田大学スポーツ科学部助教授のご自身の名刺に勲章として輝いています。太田さんのモットーは「Never Give Up!」。そして「継続は力なり」。
写真:フォート・キシモト
1957年 秋田県生まれ。
1976年 秋田商業高校卒
1981年 早稲田大学教育学部教育学科体育学専修卒
早稲田大学体育局助手
1983年 東海大学大学院体育研究科体育学専攻修了
1986年 早稲田大学体育局専任講師
1987年 早稲田大学人間科学部講師
1993年 早稲田大学人間科学部助教授
JOCアスリート委員/所沢市教育委員