2010/02/20
髙橋大輔選手、フィギュア日本男子の「道」を作った銅メダル
目に見える幸せというのは、人生の中でも本当に少ないものだと思います。少なくとも、2月18日(日本時間2月19日)、男子フィギュアスケートの演技を固唾を呑んで見守ったすべての人が、表彰式で銅メダルを首にかけられる瞬間を見て、その幸せを分かち合ったのではないでしょうか。髙橋大輔選手のこの銅メダルは、長い日本フィギュアスケートの歴史のなかで、多くの関係者やファンの力でたどりついたメダルでした。 表彰台に立った髙橋選手(提供:アフロスポーツ) 1932年のレークプラシッドオリンピックに参加してから、日本のフィギュアスケートは、メダルに向けた長い戦いを始めました。フィギュアスケート界に“JAPAN”の存在を印象付けた先駆者は、伊藤みどりさんです。1988年、このバンクーバーから程近いカルガリーで行われたオリンピックで、当時の女子は3回転ジャンプが2種類あれば優勝できた時代に、5種類を成功。カナダの新聞の一面を飾ったのは、優勝したカタリーナ・ビットではなく、Midori Itoだったのです。これが、世界が日本を脅威として認めた最初の大会でした。 そして1992年のアルベールビルオリンピックでみどりさんが銀メダルを獲得。これを契機に、日本スケート連盟はフィギュアスケートの育成を強化します。長野県野辺山での小中学生の早期育成(有望新人発掘合宿)をスタートすると、その第一期生が荒川静香さんでした。技術面はレベルが上がり、次に表現面での評価を伸ばすためにと、本田武史さんを始めとする有望選手を海外のコーチの元へ送り、メダルを狙った強化の方針を続けてきたのです。この時期、すでに多くのメダリストを輩出していたスピード部門が、スケート連盟の強化資金を支えていたことも忘れてはなりません。 さらに、採点競技であるフィギュアスケートは、国際スケート連盟(ISU)への影響力を強めることも必要です。毎年のルール改正に関わるISU委員を送り出し、国際大会の採点に加われるレベルの高いジャッジを育成し、日本に不利な流れを作らないための努力を重ねてきました。そして今回、この男子シングルの9人のジャッジには、アメリカやカナダ、ロシアなどに混ざり日本も加わっていたのです。 もちろん選手自身を支えた人たちの努力もあります。髙橋選手をジュニアのころから二人三脚で育ててきた母のような長光歌子コーチ。表現力という才能を開花させ自信を与えたニコライ・モロゾフコーチ、そして右足の手術後に苦しいリハビリを支えたドクターやトレーナー。チーム髙橋の万全な体制は、技術だけでなく精神面も成長させてきました。 そうして迎えたこの日、会場の360度に日の丸が揺れていました。日本からのファンの多くが高額なチケットを苦労して入手し、この会場へとやって来ていたのです。アメリカとカナダの選手への熱い声援の次に大きかったのは、紛れもなく日本。「大ちゃーん」の声援は、まるでホームの試合かのような温かい空気を作り出していました。 この多くの思いを背負い氷に立った髙橋選手。それは歴史に名を刻むに値する、素晴らしい滑りでした。ショートプログラムでは、1位と0.6点差の3位で、4、5位には約5点差。4回転ジャンプを回避してメダルを狙う安全策もあったでしょう。しかし怪我をする前は4回転ジャンプを2本成功させていた意地があります。手術後、4回転の精度は完全には戻っていませんでしたが、あえて挑戦することで金メダルを狙う強い意志を伝えました。結果は転倒。でもその挑戦心が髙橋選手の背中を押します。後半になるにつれスケーティングのスピードがグングン上がると、ストレートラインステップでは、高い技術だけでなく、曲の盛り上がりに合わせて力強さが増していく情熱的な演技を披露。ステップの途中から、会場からは地鳴りのような感嘆の声が響き渡りました。 ジャンプでのミスが響き、技術面のエレメンツスコアは伸びなかったものの、表現面を評価するプログラムコンポーネンツは84.5と1位。なんと日本選手が、技術ではなく表現面の評価で銅メダルをつかんだのです。4回転が決まっていれば金メダル、という声もあるでしょう。しかしこの見えない壁を破るためにかかった78年間を考えれば、価値のあるメダルでした。 小柄な日本人が氷に立っただけで点が出ないといわれた時代もありました。しかし表彰台で188cmと178cmの2人と肩を並べた、165cmの髙橋選手は、氷の上では決して小さくは見えませんでした。この日のプログラムは、イタリア映画の「道」。喜怒哀楽を表現したいと言っていた髙橋選手の言葉通り、たくさんの人の思いが詰まった「道」を演じ、フィギュアスケートの未来に続く「道」を刻んだのです。 (JOC広報チーム)