シリーズ連載「東京オリンピックから40年」
名将・大松監督に率いられた日本代表チーム
1964年10月23日(金)、東京・駒沢バレーボールコートで、女子バレーボールの優勝決定戦が行なわれた。19時36分、日本中が見守る中、日本とソビエトの試合が開始された。
その時、すでに日本は女子バレーボールにおいて世界の頂点に立ち続けていた。誰もが日本の勝利を確信していた。しかし日本の勝利が本当に確定するまで心の底から応援を続けた。これがその時の試合を見守った全国民の気持ちであった。
ソビエトは1960年にブラジルで行なわれた第3回世界選手権まで3連覇を達成。その第3回世界選手権で2位に甘んじた日本は、宿敵ソビエトを打ち破るために、激しいトレーニングに明け暮れた。
そして1962年、モスクワで行なわれた第4回世界選手権で、ついにソビエトを破り世界を制した。日本チームは当時日本国内で圧倒的な強さと勝利数を誇ったニチボ−貝塚の選手が主軸となり構成された。前年にはニチボ−貝塚チームは欧州遠征を行なっていて、ソビエト、東ドイツに圧勝。この時からニチボ−貝塚は強さのあまり「東洋の魔女」と呼ばれ、世界からも注目を集めていた。そのニチボ−貝塚は、単独チームとして1959年から6年間無敗を誇り、175連勝を遂げた。それは名将・大松博文監督、そして河西昌枝をはじめとするニチボー貝塚チームが築き上げた金字塔である。
一方のソビエトにとっては、世界王者の座の奪還に燃えて東京に臨んでいた。東京オリンピックに挑んだ女子バレーボールチームは、日本、ソビエトに加え、ポーランド、ルーマニア、アメリカ、韓国の全6カ国。
金メダルをかけた最終戦の日本対ソビエト戦を除いて、各国の対戦は実力通りに結果となって現れていった。ソビエトはポーランド、ルーマニア、アメリカ、韓国に対し、1セットも許すことなく日本戦を待った。日本もまた、ポーランドにこそ1セットを許したものの、他国にセットを与えることなく勝ち進んでいった。
東京オリンピックに臨む女子バレーボールチームの代表選手には、言うまでもなくニチボー貝塚の選手が中心となって構成された。河西昌枝はコーチ兼選手としてコートに立ちチームをまとめた。宮本恵美子、谷田絹子、半田百合子、松村好子、磯部サダ。河西を含むこの6選手は、5試合全てに出場。勝利へのポイントを重ねていった。
今年10月11日のオリンピックフェティバルにて。
この6名の強さはチームワークの良さに加え、何よりも激しいトレーニングよって培われた技術と精神力にあった。チームを指揮した大松博文監督は、「ソビエトに勝つために、ソビエトの1倍半の練習を課した。精神鍛練こそがアマチュア・スポーツの本来の目的であり、世界制覇はその副産物である」
さらに「バレーにヒーローはいらない。精神力でしっかり支えられた6つの歯車がガッチリかみ合ってさえいればそれで十分である。この精神力、すなわち根性が大切なのだ。勝たねばならぬ、と考える前にまずやらねばならぬ、とする根性ーこれはいわば人間の限界を超えた苦しい練習に鍛えることによって培われる」という言葉を残している。
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