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シリーズ連載「東京オリンピックから40年」

東京オリンピック聖火最終ランナー・坂井義則氏

 今年8月に開催される予定のアテネオリンピックは、1896年以来、再び舞台をアテネに戻す。一方で我が日本では、1964年に行われた東京オリンピックから、ちょうど40年目を迎える。あの全国民が沸いた祭典は、いまだに我々の心に深い感動を残している。開会式の朝、青く澄み切った天空遥かに描かれた五つの輪に驚き、国立競技場の聖火台を目指す一人の青年ランナーに、日本中の眼が集まった。

聖火台を目指す青年ランナー。そこは特等席だった。

 坂井義則は聖火トーチの重みに負けぬよう、腕を高く掲げることに意識を集中していた。聖火台までの階段が182段あることは、後になって知った。

 国立競技場の千駄ヶ谷門で聖火を受け取る直前の緊迫感や、競技場に入って7万2千人の大観衆の歓声を受けたときの圧迫感は、すでになくなっていた。緊張しているのは間違いないのだが、それは心地よいもので、自分がなすべきことだけに考えを向けられる。

 「とにかくタイミングよく聖火台に点火する——これにつきました」

東京オリンピックの聖火最終ランナーという大役を任せられた坂井  東京オリンピックの聖火最終ランナーという大役を任せられた坂井は、40年前の出来事をつい昨日のことのように覚えている。

 「聖火台の裏には四基のガスボンベが設置されていましてね。係りの人が一斉にバルブを開いたんです。シューッというガスが噴出す音が聞こえた次の瞬間、僕はトーチを傾けました」

 アテネで採火された聖火はこうして極東の地で焔をあげ燃え盛った。大歓声の渦の中、坂井は競技場を見下ろしていた。

 「今から思えば、あの聖火台の隣という場所は特等席でしたよ。真っ青な秋晴れの空と、世界各国から集まった選手たちのカラフルなユニフォーム、それに会場を埋めた人々・・・・・・あんな光景はそれ以前も以降も見たことがありません」

 式典は選手宣誓に移る。人々の注目がそちらに集まったとき、坂井はトーチを水を張ったバケツに入れ、そっと聖火台を離れた。「終わった」という安堵感が全身を包んだ。

 1964年の6月、坂井は郷里の広島県三次市の実家に戻っていた。早稲田大学一年生で競争部に所属していた彼は、東京オリンピックの400mと1600mで強化選手に指名されるほどのアスリートだった。しかし代表選考会では無念の敗退——「高校時代からずっと東京オリンピックに出場することだけを考えてトレーニングをしてきましたからね。代表から漏れた後は、ほとんど抜け殻のようなもんです。とても次のステップに踏み出すような気にはなれませんでした。だから実家に帰ってぶらぶらしていたんです」

 オリンピックに懸ける意気込みの強さは、何も彼だけに限ったことではなかった。いわば日本中が沸き立っていた。

 「東京オリンピックというより『日本オリンピック』という感じでしたね。日本でオリンピックが開催されるんだ、ということで皆が熱くなっていました。オリンピック開催に合わせて着工した新幹線や高速道路の整備などに象徴される社会整備も、世界の一流国入りした日本、戦後の荒廃から完全に立ち直った日本を具現化するもののひとつだったんです。あそこまで国民が一丸になれたイベントは東京オリンピックだけだと思います」

 だが、代表選手になれなかった坂井にとっては、その時点でオリンピックは終わったも同然だった・・・・・・そんな彼の元に大学の先輩から一枚の葉書が舞い込む。そこには、「聖火最終ランナーの候補者に君の名前がある。これからは自重するように」と書かれていた。

 「行動を慎むようにといわれても・・・・・・何だか聖火ランナーなんてピンとこなかったというのが、あのときの感想です」

 こう坂井は苦笑する。だがマスコミは彼を放っておかなかった。報道陣もまた、オリンピックの喧騒と高揚感を追いながら、自らもその渦中で加熱の度を高めていたのだった。代表選手が出揃った後、彼らの注目は、誰が聖火の最終ランナーになるかということで持ちきりだった。

 「三次市の僕の実家というのは、中国山地の山奥なんです。そこに連日のように新聞記者さんたちが押し寄せてきましてね。もう町中が大騒ぎですよ。まだ僕は候補者の一人でしかなかったのに」

 ある新聞社は彼を独占するため、密かに東京へ連れ出そうとした。それに感づいた他社もさっそく接触を謀ってくる。

 「最初にコンタクトしてきた新聞社は僕の身柄の確保するのに躍起でしたね。有無を言わさず東京行きの列車に乗せられたと思ったら、今度は大阪で降ろされセスナ機で羽田空港まで飛んだんです」

 国立競技場の前で写真を撮られ、再び彼は郷里へ戻る。帰った途端、NHKニュースは「坂井君には不穏当な行動があり」と痛烈に批判しているのを見た・・・・・・大人の思惑であちこちと引っ張りまわされた挙句に「不穏当な行動」と名指しされ、坂井は心底疲れてしまった。「もうランナーに選ばれることはない」と覚悟を決めた彼だが、その一方でなんともやりきれない気持ちだったという。

 ところが——組織委員会は最終的に彼を聖火最終ランナーとして選抜したのだった。

人生で最高の3分間

 東京オリンピックの聖火は、1964年8月21日にオリンポスのヘラ神殿で採火され、イスタンブール、テヘラン、ラホールからバンコク、ホンコンなどを経て9月7日に沖縄へ到着した。9日から4つのコースに分かれた聖火は日本全国を回って、東京都庁前でひとつのトーチとなり、皇居前の聖火台で炎を揺らめかせた後、男子5人女子2人の手を経て坂井へと手渡された。坂井は通算して10万713人目のランナーだ。彼は胸に東京大会のマークを戴いた白のランニングシャツを着ていた。

 「大会本番の一週間前から、合宿所では落ち着かないだろうと配慮をしていただいて、先輩の家で寝泊りさせていただきました。おかげでマスコミからも逃げられたし、ずいぶんリラックスできました」

聖火ランナーの坂井  開会式当日は会場ではなく、競技場の外にある建物の一室で待機していた。窓の外には入場行進を待つ各国の代表たちがひしめいている。テレビをつけるとすぐ隣で始まった開会式の様子が放映されていた。

 「窓から見ていると、どんどん選手たちの数が減っていきます。いよいよ行進の順番が最後の日本選手団が入場口へ向かったとき、僕も部屋を出たんです」

 人生で最高の3分間だった——坂井はこう回顧する。競技場に入ったとき観衆が発した大歓声、トラックを走ると意外に冷静になれたこと、秒刻みだった進行スケジュールを守ることへのプレッシャー・・・・・・。

 「聖火ランナーになって期待や注目されたことが、必ずしも楽しいことばかりでなかったことは事実です。その後も僕は競技を続けましたが、必ず『聖火ランナーの坂井』という枕詞がついてきましたからね。だけど、このおかげで多くの方々と出会えました。これは間違いなく僕にとっての大きな財産になっています」

 ちなみに彼はバンコクアジア大会の1600mリレー金メダリストだ。現在はフジテレビスポーツ局スポーツ部専任部長の職にある。

 坂井は原子爆弾が広島に投下された日に生を受けた。この事実が聖火最終ランナー選考に大きな要素となったのは想像に難くない。「スポーツと平和」は誰もが願う永遠のテーマだ。

 「皮肉な巡りあわせなんですが、僕がジャーナリストとして初めてオリンピックを取材した1972年のミュンヘン大会では、パレスチナゲリラによるイスラエル選手団襲撃事件が起こっています。その次に取材した1996年のアトランタ大会で爆破テロ事件があって人が命を落としました」

 オリンピックイヤーには、これまでも商業主義やアマチュアリズムの在り方、ドーピング問題など数々の課題が投ぜられてきた。だが昨今の国際情勢を鑑みれば、28回目の開催にあたるアテネ大会ほど「平和」が真実味を持って語られるべき大会も珍しい。

 「オリンピックで、もうこんな凄惨な事件を絶対に繰り返してはいけない。今こそオリンピックを平和の祭典として再認識することが大事です。だけどその一方で国際社会における『平和』の持つ意味は限りなく複雑だし重い。アテネオリンピックを機に、僕たちはもう一度平和の意味を考え直す必要があるでしょう」

聖火ランナーの坂井
坂井義則
・坂井義則 さかい・よしのり
 1945年8月6日、広島県三次市生まれ。三次高校から早稲田大学へ進み、400mと1600mリレーで活躍した。66年のバンコクアジア大会では1600mリレー優勝、400mでも銀メダルを獲得している。大学卒業後の68年にフジテレビに入社し、スポーツと報道の分野を担当した。


TEXT/増田晶文 Photo/フォート・キシモト
掲載日:2004.4.22

東京オリンピック1964