シリーズ連載「東京オリンピックから40年」
長閑の雰囲気の中で行なわれたオリンピックは、東京が最後だったと元朝日新聞記者、中条一雄は語りはじめた。メキシコ大会からは銃剣による警備が行なわれるようになっていった。彼は今こそ平和の重要性を感じさせる大会にして欲しいとも言う。そこにスポーツの祭典の原点があるはずなのだ。
選手村で、当時国家同士は犬猿の仲だった米ソの選手たちが仲良く歓談していた
近代オリンピック史におけるターニングポイント——東京オリンピックの現場を、朝日新聞の記者としてつぶさに見た中条一雄はこう位置づける。
中条は現在もジャーナリストとして、オリンピックへの辛口な指摘を続け、他方ではサッカーや原爆問題など幅広い分野で活躍している。今年78歳になったというが、シャツからジーンズまでブラウン系でまとめ、バーバリー柄のハンチング帽をかぶった姿は若々しい。その鋭い舌鋒も健在だ。
「私が“ターニングポイント”だと指摘するのには二つの理由があるんです。ひとつは、いい意味でも悪い意味でも、東京オリンピックを最後に、オリンピックはほのぼのとしたスポーツ大会でなくなってしまったということです。田舎の運動会とまではいわないけれど、東京大会までのオリンピックにはそういう長閑な雰囲気がありました。特に警備面でそれが顕著だったですね」
東京大会でも多数の警官が動員された。しかし彼らの任務は今日と大きく様相が異なる。
「警官の主な仕事というのは交通整理と会場警備だったんです。警備といっても、今のオリンピックしか知らない若者はテロ対策を連想するでしょう。ところが東京大会まではテロなんてまったく想定してないんですよ。少なくとも銃を構えることなんて無縁でした。残念ながら次のメキシコ大会では、学生活動家と警備隊の衝突があって、オリンピックは銃剣に守られるようになります。72年のミュンヘン大会では、パレスチナゲリラによる悲劇まで起こってしまいました・・・・・・今では選手村のセキュリティーが厳しいし、身の安全を考えたら、選手が市内へ出て自由に振る舞うなんてとても無理でしょう」
しかし中条の見た東京大会では、選手たちが街中でごく自然に市民と交歓していた。それどころか、こんなエピソードまであった。女子水泳の100メートルで初めて1分を切った、ドーン・フレイザー選手が、銀座でしこたま飲んだすえに皇居に掲げてあった五輪旗を手に入れようとしたのだ。警官に見つかった彼女は、なんと堀に飛び込んでしまった。彼女は丸の内警察に連行されたものの、名前が判明した時点で釈放された。しかもこれには後日談があって、大会終了後に彼女へ五輪旗がプレゼントされたそうだ。
「まあこれは特別な逸話だけど、選手村でも、当時国家同士は犬猿の仲だった米ソの選手たちが仲良く歓談していたし、西も東もなくスポーツマンが友情を確かめ合っていました」
ちなみにアテネオリンピックの経費は前回シドニー大会の約三倍だが、その三分の一の10億ユーロ(約1300億円)はテロ対策や警備費に回されるという。マーク・ホドラーIOC委員やスイスオリンピック委員会のフリッツ・アエビ理事といった関係者ですら、この膨大な経費が今後の大会運営のネックとなると指摘している。
「スポーツの祭典という原点を思い出して欲しい」
中条が指摘する二番目のターニングポイントは、東京大会からオリンピック開催と同時に大規模なインフラ整備が不可欠なものになったことだ。
「スタジアムや体育館だけでなく、高速道路に新幹線、下水道の工事など都市整備に莫大な予算がかけられるようになりました。しかし僕は思うんだけど、都市整備は何もオリンピックにかこつけてするもんじゃないんですよ。本来はオリンピックが招致できても、できなくてもやらなきゃいけないことなんです」
オリンピックが東京大会を経て膨張の一途をたどっているのは事実だ。中条は敢えてこう提案する。
「だからこそ僕は“スポーツの祭典”という原点を思い出してほしいんです。インフラもいいけど、大事なのは世界中の若者が集まってスポーツに興じる・・・・・・世界の流れが、きな臭い方向へ行こうとしている今こそ、平和の重要性を感じさせる大会にしてほしい」
中条はオリンピックの抱える問題点として、ドーピングやコマーシャリズム、報道の姿勢なども指摘する。
「すべての面でオリンピックは肥大化しすぎてしまった。純粋なアスリートとしての欲望を満たすだけでなく、金銭的な意味でのメダルの価値を求めてドーピングが蔓延し、今では取り締まる側と選手のいたちごっこです。大会全体を覆う商業主義は、マイナー競技の締め出しやテレビ優先のスケジュール編成にまで及びました。報道する側は、純粋なスポーツ鑑賞の楽しみではなく、エンタテインメント性ばかりを重視する傾向が顕著です」
彼は逆説的なアイディアとして、こんな意見を述べてくれた。
「もう、こうなったらドーピングも商業主義も、過剰な報道合戦もとことんまでやってみることでしょうね。行き着くところまで行けば活路が見えるかもしれない」
実際にこの案は、彼の口から直接サマランチ前IOC会長に伝えられたそうだ。
「サマランチは真剣に耳を傾けましたよ」
他にもユニークな改革案がある。
「夏季、秋季、冬季と三大会に分割して、しかもそれを日本の国体みたいに毎年開催すればいいんですよ。これなら競技が分散して巨大化は防げる。小国が、今のビッグビジネスと化したオリンピックを開催するのは難しいけれど、例えば秋季大会規模なら大丈夫かもしれません。大会の回数が多くなると一回への注目度は下がるし、商業的に加熱した注目度も少しは落ち着くんじゃないですか」
彼がオリンピックについて苦言を呈するのは、やはりオリンピックというスポーツの祭典と、その精神を深く愛しているからだ。
「クーベルタンはこう言っています——自分がもし100年後に生まれてくるとしたら、それは堕落したオリンピックを破壊するためだ——さっきも言いましたが、やはりスポーツと平和の祭典が存在するということは、大切なことなんです。アテネという発祥の地でオリンピックが開催される今年こそ、その意義を再確認すべきではないでしょうか」
スポーツが生む感動、そして思い出
熱弁を奮ってくれた中条だが、相好を崩すこともあった。それは、東京大会の忘れられないシーンに話が及んだときのことだった。
「印象的だったのは、男子マラソンで国立競技場へ帰ってきた円谷幸吉選手の姿ですね。残念なことに、彼はトラックでイギリスの選手に抜かれて3位になってしまうんです」
これには後日談がある。彼がマンチェスターへ取材に行ったとき、まったく偶然に、円谷を競技場で抜き去ったヒートリー選手の娘と出会ったのだ。もちろん二人とも互いのことを知らなかった。
「日本人を見ると、声を掛けずにいられなかったようですね。自宅にまで招待してくれて、父親のゆかりの品を見せてくれましたよ」
スポーツは、アスリートはもちろん、それを見る者にも数々の感動と思い出を与えてくれる——彼はこの点を強調して止まない。だからこそ中条は、オリンピックを取り巻く環境の変化や、さまざまな思惑が交錯する現状を嘆く。
「誤解しないで欲しいんですが、僕は決してオリンピック反対論者ではない。本来のスポーツの楽しみを享受できる大会に戻ってほしい。願いは、これだけなんです」
1926年、広島県生まれ。東京大学を卒業後、報知新聞を経て53年から朝日新聞に転じ、主に運動部畑を歩み論説委員も務めた。オリンピック関連の著作としては「危機に立つオリンピック」がある。サッカーや原爆問題への見識も深く、「おおサッカー天国」、「サッカーこそ我が命」、「原爆は本当に8時15分に落ちたのか」などを執筆した。
TEXT/増田晶文 Photo/(C)フォート・キシモト
掲載日:2004.6.24
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