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アジア冬季競技大会の沿革

アジアの総合競技大会としては、1951年にインドのニューデリーで第1回大会が行なわれたアジア競技大会がある。

第2回大会は1954年にフィリピンのマニラで開催され、以後4年毎に、各国持ち回りで行なわれ、1998年には万国で第13回が開催された。

かつてはアジア競技連盟(The Asian Games Federation = 略称AGF)が主催していたが、1981年111月26日にニューデリーで行なわれたAGF総会の際に、AGFが発展的に解消され、主催者はクウェートに本部を置くアジア・オリンピック評議会(The Olympic Council of Asia = 略称OCA)に変わった。そのあとアジア競技大会は、OCAの主催によって、各国持ち回りで行われている。

1982年のニューデリーでの第9回アジア競技大会の終わった後、日本オリンピック委員会(JOC)は、OCAに対して、「アジア地域における冬季スポーツの発展のために、冬季スポーツ総合競技大会を開催してはどうか」と提唱した。

このJOCの提案を後押ししてくれたのは、中国の国内オリンピック委員会(NOC)である当時の中華全国体育総会だった。

この提案をOCAが了承したことによって、第1回大会は、1986年3月1日から8日まで札幌で開催された。アジア冬季競技大会は、ここに産声をあげたのである。

この第1回大会では、スキー(アルペン、クロスカントリー)、スケート(スピード、フィギュア)、アイスホッケー、バイアスロンの4競技35種目と、デモンストレーション競技としてスキーのラージヒルジャンプが実施され、中国、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)、ホンコン、インド、韓国、モンゴル、日本の7つの国と地域から、290名の選手と140名の役員、計430名の選手団が参加した。

次の1990年の第2回大会には、インドNOCが立候補し、ライバルがないままにすんなりとインド開催が決まった。

しかし、インドNOCは間もなく開催を返上。日本のJOCはまた開催を引き受けざるを得なくなり、札幌市に再度依頼し、開催地になってもらった。

この第2回大会では、スキー(アルペン、クロスカントリー)、スケート(スピード、ショートトラック)、アイスホッケー、バイアスロンの4競技33種目と、前回と同じようにスキーのラージヒルジャンプが行なわれ、全大会を上回る10の国と地域から、441名の選手団が参加して熱戦を繰り広げた。

その次の第3回大会は、4年毎という原則からいえば1994年が開催年だったが、国際オリンピック委員会(IOC)が冬季大会の開催年を独立させ、第17回冬季大会(リルハンメル)を1994年に行なうことにしたために、OCAは第3回アジア冬季競技大会の開催年を1995年に変更。同大会の開催国には、第1回、第2回大会に参加し、まずまずの成績を収めている北朝鮮のNOCが立候補し、OCAはこれをそのまま認めた。

そころが、北朝鮮NOCは、国内事情を理由に第3回大会の開催を返上し、アジア冬季競技大会は宙に浮いた状態となってしまった。

それを救ったのは中国だった。中国は1993年12月3日に開かれたOCAの第12回総会で、「1995年に開催することは時間的に無理だが、翌1996年ならばハルピンで行なうことができる」として名乗りをあげた。

OCAは渡りに船とばかり、中国側からの申し出を了承したのである。

そのような経緯で開催された第3回大会は、スキー(アルペン、クロスカントリー、フリースタイル)、スケート(スピード、ショートトラック、フィギュア)、アイスホッケー、バイアスロンの4競技43種目と、デモンストレーションとしてスキー・ジャンプの2種目が実施され17の国と地域から702名の選手団が参加し、熱戦が繰り広げられた。

第4回大会は、1999年に韓国のカンウォンで開催され、21の国と地域から798名の選手・役員が参加した。