アジア大会物知り事典
第1回開催は、48年ロンドン・オリンピック後の際に決まった
第2次世界大戦後初のオリンピックは、48年7月、イギリスのロンドンで開催された。この大会に日本は招待されなかったが、アジアから参加したインド、フィリピン、朝鮮、中華民国(現在のチャイニーズタイペイ)、セイロン(現在のスリランカ)、ビルマ(現在のミャンマー)の6ヵ国の代表が一堂に会し、4年に一度、アジアの総合競技大会を開くことで意見の一致をみた。
そして、この大会を開くための組織としてアジア競技連盟(AGF)を設立し、第1回大会を2年後の1950年秋に、ニューデリーで開くことを決めた。この時に中心的役割を果たしたのは、インドのソンディ国際オリンピック委員会(IOC)委員である。ソンディ委員は、その功績により、“アジア大会の父”とも言われている。
第1回アジア大会を開催することになったインドは、実施競技が陸上、水泳(競泳、飛び込み、水球)、サッカー、バスケットボール、ウエイトリフティング、自転車の6競技と決まったので、これらの競技会場の新設、改築などの諸準備に取りかかった。また、競技用具は、一括してヨーロッパに発注した。ところが、競技用具が50年秋までにニューデリーに到着しないことが判明。このようなことも一つの理由となり、第1回が開催されたのは、予定よりも約半年遅れの51年3月のことであった。今では、考えられないことだが、第2次世界大戦直後はすべてのものが不足しており、競技用具の入手は特に困難を極めた。
ロンドン・オリンピックに招待されなかった日本は、このニューデリーのアジア大会に喜び勇んで参加。57種目中24種目で金メダルを獲得し、参加11ヵ国の中で最高の成績を収めた。
第3回東京大会開催がオリンピック招致成功につながる
第2回アジア大会は、ニューデリー大会から3年後の54年5月に、フィリピンのマニラで開かれた。実施競技はボクシング、レスリング、射撃が加わり、自転車が実施されず8競技となった。日本は全8競技に198人(選手151、役員47)の選手団を編成して参加した。
次の58年第3回大会は、東京が舞台となった。そのころの日本は6年後の64年の第18回オリンピック大会を東京に招致しようとの動きが活発化していた。そのため日本のスポーツ界は、東京アジア大会開幕の直前にIOC総会を開催して、東京に集まったIOC委員に、開会式をはじめ競技も観戦してもらうことを企画し、実際にそれを実現した。
翌59年、当時の西ドイツのミュンヘンで行われたIOC総会の際に、東京が第18回大会の開催地に選ばれた。前年の東京アジア大会の見事な運営ぶりに感心したIOC委員が多く東京に1票を投じたからだと言われている。東京アジア大会の成功が、東京オリンピックの招致を導いた。
「スポーツと政治」問題が表面化した第4回ジャカルタ大会
62年にインドネシアのジャカルタで開催された第4回大会は「スポーツと政治」問題が表面化し、混乱した大会として特記される。
発端は開催国のインドネシアが、政治および宗教上の理由からAGF加盟国であるチャイニーズ・タイペイとイスラエルに招待状を送らなかったことによる。この事実を知った国際陸上競技連盟(IAAF)は、故意に2ヵ国を排除したとして、ジャカルタ大会の陸上競技を正式なものとして認めないと警告してきた。また国際ウエイトリフティング連盟(IWF)も、大会を強行すれば東京オリンピック出場を停止すると通告してきた(最終的にはウエイトリフティングは中止)。
2年後に東京オリンピックを控えている日本は「参加すべきかどうか」で苦慮したが、インドネシアの対日感情の悪化を避けるため、あえて全競技に参加した。その後、AGF評議員会では、インドネシアについて言及することはなかったが、IOCはインドネシア・オリンピック委員会に対し、IOC加盟取り消しの制裁を加えた。
このIOCの制裁に激怒した当時のインドネシアのスカルノ大統領は、チャイニーズ・タイペイ問題でIOCを脱退していた中国などの協力を得て、66年に「新興国スポーツ大会」(GANEFO)をカンボジアのプノンペンで開催し、アジアのスポーツ界は分裂の危機に直面した。しかし、その後、スカルノ大統領の失脚と、中国に起こった文化大革命の影響で、GANEFOは自然消滅の形となった。
第8回バンコク大会まで続いた日本のナンバーワン時代
日本は第1回大会以来、78年の第8回バンコク大会まで、アジア大会における金メダル獲得ナンバーワンで、他国の追随を許さなかった。
ちなみに、第1回ニューデリー大会で日本が手にしたメダルは6競技57種目中、金25、銀21、銅15。また次の第2回マニラ大会では8競技77種目中、金38、銀36、銅24。日本があまりにもメダルを獲得したために、第3回東京大会からは、陸上競技、水泳などの個人種目は従来の1ヵ国三人から二人に制限された。それにもかかわらず、日本はメダルを取り続け、78年バンコク大会まで、アジアのナンバーワンとして君臨した。
その日本が、ナンバーワンの地位を中国に譲り渡すのは、82年第9回ニューデリー大会のとき。中国が国際舞台に復帰したのは、73年11月、AGFが「中国招請、チャイニーズ・タイペイ追放」を決定してからだが、この決定を受けて中国は74年の第7回テヘラン大会に姿を見せた。
久しぶりに国際スポーツ界に復帰した当時の中国は「友好第一、競技第二」をスローガンに掲げており、日本の金75、銀49、銅51に対して、金33、銀45、銅28のメダルを獲得。さらに次の第8回バンコク大会では、日本の金70、銀59、銅49に対して、金51、銀54、銅46のメダルをものにし、日本に肉薄していた。
そして第9回大会では日本の金57、銀52、銅44に対し、中国は金61、銀51、銅41となり、金メダルにおいて日本を逆転した。この大会以後、日本はナンバーワンを中国に譲り渡しており、ナンバーツーの座を韓国と競い合っているのが現状である。