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トップアスリートインタビュー

櫻井孝次選手(陸上競技)
東京オリンピックを振り返って 櫻井孝次選手
メルボルン・ローマ・東京と3大会連続でオリンピックに出場した陸上競技の櫻井さんが、競技人生の集大成として臨んだ東京大会への思いや、当時の様子について語りました。

 東京大会は、1956年のメルボルン大会、1960年のローマ大会に続く3回目のオリンピック出場でした。
 ローマ大会の時にはすでに日立製作所に就職していましたし、怪我で失敗していたので、もう選手はやめようと思っていましたが、東京大会は全員で、総力を挙げて参加しようということになり、当時の選手としてはかなり長いキャリアを持つことになりました。

 我々の時代は、スポーツ選手でも就職すれば、仕事をすることが前提です。メルボルンの経験があり、ローマに続く大会が東京で行われるということで、会社の理解が得られ、引き続き社会人選手としてオリンピックに臨むことになりました。ただし、仕事は一般の社員の人と同じです。朝8時から午後5時まで勤務をして、その後練習をするという毎日でした。

 1962年にジャカルタで行われたアジア大会では日本選手団のキャプテンを務め、三段跳びで優勝しました。
 1963年のプレオリンピックでは、優勝はできませんでしたが日本人トップの2位に入りましたので、東京大会の出場は間違いないと確信しました。

 当時陸上競技は世界的な成績を上げることが難しく、特にローマ大会は苦戦し、入賞者ゼロという結果でした。東京大会に関しては地元開催ということで、強化合宿が頻繁に行われました。短距離では飯島選手、女子ハードルでは依田選手、そしてマラソンの円谷選手がかなりレベルを上げて期待されました。

 練習の参考にしたのは外国からのいろいろな情報、コーチの経験、我々も時々海外に行くことがありましたから、自分の目で確認した世界の動きなどを総合してトレーニングをしていました。
 今と大きく違うのは医科学のサポートがないことです。当時はまだ織田幹雄さん(1928年第9回アムステルダム大会金メダリスト)や南部忠平さん(1932年第10回ロサンゼルス大会金メダリスト)、田島直人さん(1936年第11回ベルリン大会金メダリスト)がまだお元気で、合宿にも時々来られました。戦前に素晴らしい成績を納めた大先輩たちがアドバイスをしてくれましたので、精神的にも心強かったと思います。

 東京大会を目標に、自分としてはこれまでにない体調をつくり、これなら大丈夫だと思っていたのですが、本番1週間前に肉離れを起こし、開会式にはでることができませんでした。歩くことも難しい状況ですから、開会式は欠席し選手村で選手を見送りました。選手としては競技が第一ですから、開会式に出られなかったことについては、特に意識していませんでしたが、後で振り返ると東京大会のシンボルになっているので、ちょっと残念だったなという思いがあります。
 競技は痛み止めの注射を打って出場しました。競技の時は痛みはなかったのですが、違和感があり、思うような跳躍ができませんでした。

 私が日本代表として参加した国際大会は、オリンピック3回、アジア大会2回、ユニバーシアード大会2回です。東京大会は私にとって最後の国際大会です。それぞれの大会のユニフォームを今でも持っています。この10数年は日本陸上競技連盟と関わるようになり、役員として大会に参加することも多いですから、合わせると大変な数になります。記念として大事にしたいと思っています。

 東京大会は地元開催ということもあり、大きな声援を頂きました。
 今回のアテネ大会には、日本からたくさんの応援団が来てくれました。皆さんの声援が選手団への励みとなり、好成績に結びついたと思います。

櫻井孝次選手(陸上競技)
・櫻井孝次 さくらい・こうじ
 1936年2月18日東京都生まれ。小石川高校から早大に進み、陸上競技でメルボルン、ローマ、東京と3大会連続オリンピックに出場。その後、日本陸上競技連盟でも要職を歴任した。

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