市川崑総監督が語る名作「東京オリンピック」
2. 随所に見せたこだわり
−準備段階では、カメラや照明の問題で大変ご苦労があったようですね。
市川: ニュース映画社のカメラマンや監督部のスタッフが、ぼつぼつ参加してくれたので、具体的な打ち合わせを毎日やりました。この競技はカメラが何台いるか、どの場所に据えるか、スタッフは何人か、とか。絵コンテを書いて説明をしたり。マラソンの道路とかロケハンをやりましたね。現場に行って、例えば、メインスタジアムで上の方から下のトラックを見ると、人間が豆粒にしか見えない。それで各会場で望遠レンズの必要を痛感しました。それも、普通使っている200ミリ、300ミリなどではダメ、ぼくは「1000ミリ、1500ミリ」って主張しましてね。機材全般はニュース映画各社から借りたものだけでは、とうてい足りず、組織委員会に購入してもらったものもありますが、とにかく必要数を揃えるのは苦労しました。
−照明なんかも、会場と競技の条件があって、必ずしも撮影の要求に合わない場合があったでしょうね。
市川: カラーでシネマスコープということで制作に入ったのですが、シネマスコープは画面が大きく横長で、撮影にはライトが強力にいるのです。然し強くすると選手の競技に影響すると会場から反対されましてね。いろいろ難題がありました。それと予定しているフィルムの量が少ないのではないか。これだと競技の後半がフィルム不足で撮れないんじゃないかと。計算上でね。
−フィルムが足りないというのは?
市川: 予算の問題です(注:当時、組織委員会が大蔵省に認められた映画製作費は当時の金額で2億5000万円)。ドキュメンタリーですから、どれだけフィルムが回るかはわからない。組織委員会と相談した結果、不足分は或る会社が寄付してくれることになったのです。
−そうだったんですか。知りませんでした。それで、撮影の体制は?
市川: アテネの聖火の点火を撮って来ましたし、9月上旬にはギリギリ準備は終わりました。監督部が足りないというので、谷川俊太郎さん、安岡章太郎さん、長野重一さんにも参加してもらいました。大会が始まってからは、朝、撮影現場に行く大勢のスタッフに、カメラ、フィルム、弁当を渡して「いいカットを撮って来てくれ」と送りだすわけです。
−それで、その時先生は、どこに?
市川: 旧赤坂離宮(今の迎賓館)に組織委員会の事務局があり、そこにぼくたちの映画協会の制作部がありまして、そこでスケジュールやスタッフの配置がえや予算のことなどをやっていました。撮影隊が帰ってくると報告を聞いたり、毎日現像所から出来てくるラッシュ(撮影されたフィルム)を試写してみる。忙しい毎日でしたよ。もちろん、重要な競技は現場に行き監督をしました。
選手の内面へのこだわり
−こうして出来上がった『東京オリンピック』は、「オリンピックは人類の持っている夢のあらわれである」という字幕で始まり、画面いっぱいに白熱の太陽が昇ります。
市川: 太陽の光はあらゆる生き物の生命の源というか、人間にとって一番の光ですし、平和と平等のシンボルです。それでトップにどうしてもいるんじゃないかと。
−聖火リレーの国内シーンは広島から始まりましたね。
市川: どうしても広島の原爆ドームからスタートさせたかったんです。
−開会式から20の競技がアベベ優勝のマラソンまで次々に展開。最後は閉会式で、選手たちが国別の整然とした行進をせず、日本の旗手・福井誠選手を肩車し、あとは国境も人種も超えて腕や肩を組み合って入場するハプニングがありました。映画はこのあと太陽が沈み、聖火が消え、そして「聖火は太陽へ帰った。人類は4年ごとに夢を見る。この創られた平和を夢で終わらせていいのであろうか」の字幕が流れ、先生の平和と友情をテーマとしたオリンピックという壮大な抒情詩が完結します。
振り返ってみて、思い通りの作品になったな、というお感じでしたか?
市川: 繰り返すようですが、単なる記録映画にしたくなかった。それは少しやれたような気がします。 望遠レンズを駆使して、選手の表面の逞しさだとか、美しさだけではなく、選手それぞれの内面的なものを捉えることが出来たし、選手だけではなく、競技や会場の段取りをしているスタッフの皆さんも、見物に来ているお客さんも参加しているわけですから、いい表情が沢山撮れました。オリンピックは参加することに意義があるんですからね。それと東洋で初めてのオリンピックということを強調したかった。とにかくスポーツというのは、人間がつくった素晴らしい文化です。
−絶対忘れられない思い出をひとつだけ挙げるとすれば?
市川: 開会式ですね。前夜が大雨だったでしょう。当日になってもどしゃ降りなら、式典は中止となる。順延はないと聞いてガックリしたんですが、ある記者が「いや大丈夫。天皇陛下は天気についているから」と言ってくれた。実際、朝になったらピーカンの日本晴れ。ぼくもいいカットを撮影しようと、ハンドカメラを持って国立競技場に行ったのですが、開会式の選手入場が始まったとたん、その素晴らしさに呆然としてしまいました。遂に見とれてしまったまま、1カットも撮れませんでした(笑)。
−あれから40年。先生はかくしゃくとして現役を続けていらっしゃいますが、あの映画は先生の映画作家としての以後の人生に何か影響を与えたのでは?
市川: あると思います。偶然のピンチヒッターでやったわけですが、世の中、偶然の連鎖ということもありますし、それで勉強をさせてもらいました。オリンピックが何であるかもそうですし、それに対するものの考え方、そういう意味もあってスポーツに教えられましたからね。
−もし、もう一度お撮りになるとしたら?
市川: いや、もうやりたいとは思いませんね。今やったらもっとうまいとは思いますけどね(笑)。時代のすう勢でオリンピックも変わってきましたしね。然し、オリンピックの理念の世界の平和と友情は、変わらないでほしい。
資料提供:古南晴三氏
1915年11月20日、三重県宇治山田市(現・伊勢市)生まれ。J.O.スタヂオ(東宝の前身)にアニメーターとして入社し、1948年に新東宝「花ひらく」で監督デビュー。その後、草創期のテレビドラマにも進出し、「木枯らし紋次郎」シリーズをヒットさせるなど、新しい可能性を常に追い求め、晩年までメガホンを握り続けた。2008年2月に92歳で死去。1982年紫綬褒章叙勲、1996年文化功労者顕彰、1998年勲四等/旭日小綬章叙勲、2008年正四位/旭日重光章叙勲。
<主な作品>
「プーサン」「ビルマの竪琴」「炎上」「おとうと」「犬神家の一族」「細雪」「どら平太」など
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