東京オリンピックと嘉納の教え
戦後、日本は再び東京招致にチャレンジした。1952年から米国のA.ブランデージがIOC会長に就任する。彼は嘉納とも親しく、1940年の東京大会を最後まで支持した人物であった。
ブランデージは、第二次大戦後も積極的に東京招致を支持し、1959年のミュンヘンでのIOC総会において、第18回大会の東京開催が決定した。その2年後に柔道が東京大会で行われることが認められた。国際柔道連盟のみならず、ヨーロッパ柔道連盟も、柔道をオリンピック種目にするために精力的に動いた。IOC委員を29年間務めた嘉納の人脈が、1964年の東京大会の実現と、柔道のオリンピック種目への導入に大きく貢献したことは間違いない。ただ嘉納治五郎は柔道をオリンピック種目にすることではなく、オリンピックに武道精神を入れることを目指したのであった。
嘉納の武道精神が1964年の大会で示されたのは、柔道無差別におけるオランダのヘーシンクの戦いぶりであった。彼が優勝を決めた瞬間、興奮した自国の関係者が畳の上に入って来ようとした時に、ヘーシンクはそれを手で制止した。この姿に礼を重んじる武道の精神を見ることができる。武道的な精神が外国人にも身に付いていたことは称えられてよいだろう。しかしながら、その後の柔道の流れは国際化とともに西洋化の道を急速に歩み始めた。ランキング制度の導入などプロ化への波が柔道にも押し寄せて来るなかで、武道精神をどのように位置づけるかが問われている。
嘉納治五郎は1940年の東京大会招致にあたっては、オリンピック・ムーブメントが世界の文化になるよう働きかけたといえる。未来のあるべきオリンピック・ムーブメント像を、オリンピック精神と武道精神との融和ということを教育家、柔道家として主張した。嘉納の目指したオリンピック精神と武道精神との融和は未だに果たされてはいないのではないだろうか。
クーベルタン晩年の最後の手記には、1940年の東京大会について書かれている。そこには、東京でオリンピックが開催されることで、ヨーロッパ文化の基礎であるヘレニズムが、アジアの洗練された文化・芸術と混じり合うことが大事だ、と書かれている。クーベルタンは、オリンピックの理念は時代とともに変化しなければならないと主張しており、その糸口を日本の文化に求めていたのかもしれない。古来より日本には、異文化を積極的に受け入れ、新たな文化を創造する「和」の考えがある。そうしたことから、オリンピックを多文化時代における世界共通の文化にするために、オリンピック文化と日本文化を融合させ、新たなオリンピック・ムーブメント像を将来の東京大会で示すことが、日本に課せられた使命なのではないだろうか。
IOCカイロ会議の後、東京開催を支持した米国のIOC委員を表敬訪問し、バンクーバーから氷川丸に乗って日本へ出発(出発直後に病気のため倒れた)。