1940年第12回大会の東京への招致(1)
嘉納がIOC委員として全精力を傾けたのが、1940年の第12回オリンピック競技大会の東京への招致であった。招致のための活動は、1931年に東京市会が開催要望を決議してから始められるが、嘉納の具体的な活動は次の通りであった。
1932年9月:IOC総会(ロサンゼルス)に出席し、ラツールIOC会長に正式な招請状を手渡し、東京への招致を説明。
1933年6月:IOC総会(ウィーン)に出席。嘉納の推薦による杉村陽太郎(国際連盟事務局次長)が日本人3人目のIOC委員に就任。
1933年11月:IOC会議(ウィーン)に出席。嘉納は、東京開催の場合の組織、競技場、経費について報告する。
1934年5月:IOC総会(アテネ)において、嘉納が各IOC委員に日本のスポーツの写真集を配布しながら招致活動を行う。ローマ市が断然有利との感触を得る。また、日本人2人目のIOC委員である岸清一死去のため、後任として副島道正がこの総会でIOC委員に選出される。
1935年2月:IOC総会(オスロ)、杉村、副島両IOC委員が総会に出席。
1936年7月:IOC総会(ベルリン)、嘉納出席し、投票。
この当時、嘉納は70代半ば。船での長旅を苦ともせずに、東京への招致を目指して奮闘したのであった。
1940年のオリンピック競技会の東京招致に、嘉納がいかに全身全霊を打ち込んでいたかは、次の言葉に表されている。
自分は重大な覚悟を持った。オリンピックは当然日本に来るべきなのに、もし来ないのであれば、正当な理由が退けられたことになる。それならば日本からヨーロッパへの参加もまた遠距離であるから、出場する必要ないという事になる。そうなれば日本は更に大きな世界的な大会を開催してもよかろうと思っている。
これは1940年の開催地を決定するために1936年7月末に開催されたIOC総会の期間中に、嘉納が現地で述べた言葉である。もしも東京に決定しなかったなら、IOCが間違っているのであるから、東京で別の国際大会を開催する、との宣言であった。嘉納は東京で開催すべきという強い信念と確信を持ってIOC総会に臨んだのであった。
1934年6月23日、オリンピアにおけるIOC総会(アテネ)閉会後、オリンピック再興40年記念碑の前での記念撮影。
向かって碑の左・会長バイエ・ラツール伯、次の前列・ギリシャ代表ボラナチ氏、次は嘉納治五郎、次はオランダ代表。