オリンピックと武道精神
嘉納の言う、オリンピックを世界的な文化にするとは、どのようなことであったのだろうか。それは講道館柔道により形成された武道精神をオリンピック精神に組み入れることであった。
嘉納は1881年、東京大学文学部(政治学と経済学を専攻)を卒業後、さらに文学部哲学科で倫理学の研究を1年間続けた。人間の内面的な発達に大いに関心を持ったからである。そこを終えた直後に講道館柔道を創始している。嘉納は人間の内面的な発達と柔道とは、関係の深いものと考えたのである。
オリンピック・ムーブメントに関わってからは、オリンピック精神と武道精神とを融合させることを目指した。オリンピック精神は心身の調和的な発達を求めたヘレニズム思想の展開である。一方の嘉納の武道精神は、身体とともに心を鍛え、そこで得たものを社会生活に応用していくことを目指しており、オリンピックの理念と矛盾するどころか、発展的でさえあった。嘉納の武道精神は、つきつめれば「精力善用・自他共栄」の考え(目的を果たすために最も効力ある方法を用いつつ、それを実生活に生かすことによって、人間と社会の進歩・発展に貢献すること)であったといえる。
嘉納は、西洋のスポーツ文化に、「精力善用・自他共栄」という武道精神を加味することを構想していたといえる。1940年の東京でのオリンピック開催は、その格好の場であった。しかしながら、嘉納が1938年5月に死去すると、その2ヶ月後に政府は、日中戦争の泥沼化により東京大会の返上を決定してしまうのであった。
上二番町時代、門人と嘉納塾生たち(1885年ごろ)。中央嘉納治五郎を囲んで富田常次郎、西郷四郎、山下義昭、湯浅竹次郎等の顔が見える。