公益財団法人日本オリンピック委員会(JOC)は、「TEAM JAPAN WINTER FEST」を2月11日、12日の2日間にわたり「アーバンドッグ ららぽーと豊洲」にて開催いたします。
本企画は、北京2022冬季オリンピック1周年に合わせて『TEAM JAPAN SOCIAL ACTION』の一環として実施し、オリンピアンがオリンピック期間中に多くの方からいただいた声援に改めて感謝を伝えるとともに、声援を受けて活躍したオリンピアンが、今度はスポーツを通じて多くの方々と社会課題の解決に向けて考えるきっかけとしていただくものです。
本イベントでは、気候変動の影響を大きく受けるウインタースポーツへの興味関心を多くの子供たちに持っていただくことを通じて、環境の大切さに気付いていただくことを目指します。
皆様のお越しをお待ちしています。
■得意な条件を味方に
――金メダル獲得おめでとうございます。連日試合が続き、眠る時間もほとんどないのではないでしょうか。
はい、眠いです(笑)。
――まずは、金メダリストとなった率直な感想からお聞かせいただけますか。
今のところ、まだ実際にメダルをもらっていないので(※)、まだ実感もないという感じです。(※インタビュー実施日2022年2月8日)
――一人のジャンプ専門家・研究者でもある小林選手から見て、今回金メダルをとれた要因をどのように分析しますか。
本当に、自分のイメージ通りの動きを再現できたことがすごく大きかったと思います。実際にイメージ通りの動きを表現できるようになってきたのは、前日の練習くらいでした。これは僕だけだったのですが、オリンピックに出場するにあたり、スポンサーの関係でスキー板を新しいものに変えなければいけませんでした。新しいスキーがうまく合うかどうかもちょっと難しかったところです。
――そういう事情があったのですね。そのような中で、決勝では2本とも完璧といえる余力も感じるジャンプを見せてくれました。自信を持てるところまで、どのようにして気持ちと技術を整えていったのでしょうか。
北京に入る前1カ月ほどは、ワールドカップでもすごく難しい試合が続き、気持ちの面も含めて、正直なところ「これではメダル争いはできない」というような感じだったんです。そこからいろいろと試行錯誤して、少しずつ光が見えてきて、直前のワールドカップではまずまずいいところまでいけました。ちょうど上り調子で北京2022冬季オリンピックを迎えられたので、自分がやってきたことに自信が持てて、今はブレずにできている状態だと思います。
――葛西紀明監督の真似をして、トライアルジャンプを飛ばないという選択をされました。疲労軽減するとか、悪いイメージをつけないといったメリットも想像できる反面、心と体を慣らしておくという意味でいうとデメリットもあるのではないかと想像するのですが、どのような狙いがあったのでしょうか。
いい風が当たらなければ勝てないだろうとは思っていましたが、前日まではすごく風が荒れていました。すごくいいイメージができていたので、そのイメージを崩さず試合の2本を集中できるようにしようと考えて飛ばなかったんです。ただ、蓋を開けてみたら試合の日は風がすっかり落ち着いていて(笑)。でも、僕の得意な条件だったので良かったです。
――裏を返せば、今になって考えると実は飛んでおいても良かったと思っていますか(笑)。
いや、飛ばなくて良かったです(笑)。
――そのような中で、ライバルの選手たちは、失敗のジャンプがあったり、1本目と2本目を揃えられなかったりと苦労している様子がありました。試合の中では、どのように周りを見ているものなのでしょうか。
あの日は周りのことを特に気にしていませんでした。本当に、自分のいいイメージだけを持って臨みました。
■自分との闘い、ライバルとの戦い
――オリンピックには魔物が住むとも言われますが、他の国際大会と比較して違いを感じることはありますか。
正直なところ、あまりないんじゃないですかね(笑)。
――そうなんですね。全くないのでしょうか……。
いや、分からないです……、分からないです!(笑)
――あまり違いを感じることなく大会に参加できているということですね。
ここ2大会はアジアでできているので、ホーム感があるのかもしれません。ヨーロッパの選手たちもあまり飛んだことないジャンプ台がほとんどなので、全選手がフラットで有利不利なく戦えるというか……。やはりヨーロッパの試合だと、彼らがよく飛んでいるジャンプ台だったりもするので、そういう面でフラットに感じるところがあります。 周りの選手たちもいろいろな思いを抱えてこの舞台に立っています。「もっとうまくなりたい、もっと遠くへ飛びたい」という自分自身との闘いもありますし、ライバル選手と競い合うからこそ自分自身が頑張れるということもありますし、どちらもあると思います。
――この後はラージヒル、そして、男子団体と続きます。抱負を教えてください。
ラージヒルは距離が伸びる台なので、ビッグジャンプを目指して頑張ります。
――調子もすごく良いように見えますが、ラージヒルに向けてご自身の手応えはいかがですか。
まだ実際に飛んでいないので、全く分からないですね。同じジャンプ台でも、ノーマルヒルとラージヒルでは全然感覚が違いますしね。練習を通して、飛びながらつかんでいく感じです。
――期待しています。お疲れのところ、本当にありがとうございました。
ありがとうございます。
■ついにかなえた幼き頃の夢
――3度目の冬季オリンピックで念願の金メダルを獲得しました。日本スノーボード史上、初の金メダリストとなり、小さい頃からの夢が一つかなったともおっしゃっていましたが、あらためて率直な感想をお聞かせください。
オリンピックの金メダルというタイトルは小さな頃からの夢でしたし、ずっとやってきたことを出し切ることができて、ようやくかなった、ようやく手にすることができました。まだ実感は湧いていないですが、素直にうれしい気持ちです。
――普通、小さい頃の夢が実際にかなうことはなかなかないのではないかと思います。幼い頃の「夢」が、具体的な「目標」へと変化したきっかけを感じたことはありましたか。
やはり、最初ということでは、2014年にソチオリンピックを経験したことが大きかったと思います。自分自身に可能性を感じることができて、「次こそは金メダルをとりたい」と思える経験にもなり、その夢により近づけたと感じます。自分でそう位置づけて、本当にたどり着けるのではないかという気持ちも強くなって、それまで以上に練習を追い込むようになりました。その分ここまでの道のりは長く感じましたが、そういう気持ちがあったからこそ、今、夢がかなったのかなと思います。
――予選から振り返っていただきたいと思います。決勝ではできれば最終滑走、なるべく後ろの方で滑りたいという狙いがあったと思うのですが、首位通過でした。ご自身の狙い、手応えはいかがでしたか。
前回の平昌オリンピックでもそうでしたが(ショーン・ホワイト選手が最終滑走者として最後の滑走で逆転金メダルを獲得)、オリンピックはドラマが生まれやすい場所でもあり、本当に最後の最後まで何が起きるか分からない大会ですよね。前回大会でそういう気持ちを経験していたので、今回はちょっとした隙も与えないように、予選もトップ通過を狙いたいと思っていました。オリンピック前、他の大会でもオリンピックと同じような気持ちで挑むようにしていたのですが、全てイメージ通りというわけにはいきませんでした。そうやってあらゆる場所、あらゆるシーンで自分の滑りを試してきた結果、オリンピックの舞台で全てをようやく出し切れたのかなと。予選・決勝を含めて、最も良い状態で臨めた大会だったと感じますね。
――決勝では、3本とも大技の「トリプルコーク1440」を決めましたが、どのような気持ちだったのでしょうか。
事前練習では、1本も無駄にしないように、予選・決勝にピークを合わせられるように意識して3日間練習をしてきました。
トリプルコークは、大会で調子が良くてまぐれでできたわけではありません。練習を積み重ねてきて、他の大会でも何回も試して本当に紙一重の失敗を繰り返した上で得た完成度でした。長い道のりでしたが、全てがこのオリンピックの結果につながったと思います。
■ショーン選手との友情
――決勝2回目の滑りは完璧なアタックだったと感じましたが、思いの外点数は伸びませんでした。そのジャッジについては、国内外のメディアなどでも非難があるように報じられていますが、平野選手ご自身も納得がいっていなかったようにも見えました。「怒りの気持ちを力に変えた」といったお話もされていましたが、ご自身ではどのようにとらえ、そして、3回目につなげていったのでしょうか。
1回目は、全てのトリックを決められず失敗があった中で、2本目が決められたことは良かったのですが……。縦3回転・横4回転を入れて、高さを含めてまだ大会で誰も決めたことのない一番難しい難易度の新しいトリックを出したのに、そこがなぜ評価されないのか。トップの(スコット・ジェームズ)選手の方は、それと比較して何が良かったのかという理由が分かりませんでした。オリンピックという場でそのような目線でジャッジされていることにイライラする気持ちもありましたし、平等じゃないなと感じてしまったんです。
ただ決まってしまった得点に対して、「点数を今すぐ変えてくれ」と選手が抗議する余地もないので、僕自身「次に集中しなくては。するしかないよな」とも思いました。実際、心の中では、やはり納得できない気持ちがずっとありましたけど。
自分の場合は、普段からポジティブに物事を考えることが多いので、あの場面でも、ただ怒り任せというよりは、ポジティブにうまく力を発揮できるように切り替えどう集中していくか、次はどう魅せるかということを、音楽を聴きながら一人で考えていました。集中しつつ、冷静になることができて、心の奥では燃えている。そんな気持ちがうまく合致した結果、最後は自分のイメージ以上の滑りができて「これ以上はないだろう」という形でフィニッシュできました。ただ、もし本当に3本目が決められていなかったらどうなっていたのだろう、とは自分でも思います(笑)。
――ある意味、スキー界、スノーボード界を救う滑りだったかもしれないですね。
そうですね。でも、結果が良かったからとそれでいいということではなく、ジャッジの方々の話はきちんと一度聞きたいですね。どういうことを言ってくるのかは気になるところです。
――結果的に、前回大会のショーン・ホワイト選手同様、最終滑走で大逆転となり、カッコいい結末となりました。今大会を最後に引退することを表明していたショーン選手からも「平野選手を応援していた」というコメントもありました。最後、お二人でたたえ合うシーンも印象的でしたが、お互いにどのようなお話をされていたのですか。
あの場では、たくさん話せるような時間もありませんでしたが、ショーンはシンプルに一言で、「本当にいい滑りだった」と僕の滑りと金メダル獲得について褒めたたえてくれました。それに対して僕も「ショーンもめちゃくちゃ良かったよ」といった言葉をやりとりしたんです。シンプルな言葉のやりとりでしたが、その中で、彼の気持ちを想像すると、すごくグッとくる部分もありました。逆に彼も、僕がようやくオリンピックの頂点に立ったということに感動してくれているところもあったと思います。
僕もショーンのことをずっと見てきましたし、そしてずっと一緒に戦ってきた相手なので、お互いがお互いの気持ちを想像で感じとれるような部分があります。最年長での北京オリンピックへのチャレンジは当然すごいことだと思いましたが、それ以上のところでお互いに通じる気持ちがあったように感じています。
■金メダルに詰まった価値と重み
――東京2020オリンピックでは、スケートボードで出場されました。23歳という年齢で夏冬合わせて4回オリンピックに出て3大会でメダルをとっているという事実は、すでにオリンピック史に名を残すレジェンド的存在であることを示していると思います。東京2020オリンピックからここまで、時間もすごく短かったと思いますが、スケートボードへの挑戦が及ぼした影響はありましたか。夏と冬のオリンピックで違いを感じたことはありましたか。
東京2020オリンピックにスケートボードで出場するというのは、新しい挑戦でした。今まで積み上げたものから離れてそこへ飛び込むのは、スノーボードをやり続けることよりも難しいことだと分かっていました。それを覚悟の上で進んでいったので、当然結果だけが狙いだったわけでもありません。「僕にはスノーボードしかない」という気持ちに怖さを感じたり、スノーボードだけじゃない違う目線が欲しかったりしたからこそ、もっといろいろなこと知るべきだしチャレンジする経験を重ねたいと思っていたのです。
人と違う道を行くのは甘くないことです。スケボーの世界にもとんでもない選手たちがいますから、心が折れかけたことは何度もありました。でも、普段行かない国を訪問したり、スノーボードをやっている人とはまた違う普段触れ合うことのないような人たちとのセッションができたりと、違う景色を見ることができますよね。いろいろな意味で自由にあふれていて、いろいろなスタイル、形、色などがそれぞれあって、見ていて刺激になりました。
でも実際のところ、僕の中ではつらいことがほとんどでした。今回、東京2020オリンピックから半年しかない期間で北京2022冬季オリンピックを目指したわけですが、僕はチャレンジャーで、みんなをどこまで抜かしていけるかという自分との闘いの中で大きなプレッシャーを感じていました。ただ、長く不安と向き合ってきた時期があったからこそ、そのプレッシャーを何とも思わずに済んだのかとも思っていますし、そういう気持ちになれたのも、全ての経験が自分を強くしてくれたからだと感じます。この半年間で、今までの自分を上回る成長ができました。本当にここまで来られると思っていなかったのですが、こうやってメダルをゲットできたのも皆さんのおかげがあって達成できたことだと思います。
――金メダルと銀メダルは全然違うものですか。
やってきた内容が違うのでやはり別物です。これまではその4年間をスノーボードだけに全部懸けてやってきました。でも、スノーボードだけに全てを懸けるのはもったいない、もっといろいろなことをできるのではないかと考えて、今回はいろいろなチャレンジをしてきたので、隙間のないずっしり詰まった大会になりました。気持ちも考え方も挑戦している内容もガラッと変わった4年間で、プラスの意味で成長できたのかなと思いますし、そういう思いがメダルに詰まっているのかなと感じますね。
――ここから先、また新たなチャレンジをしていく平野選手を応援し続けていきたいと思います。ありがとうございました。
ありがとうございます。
■メダルに詰まったドラマ
――金1個、銀3個、今大会合計4個のメダルを獲得。これで、2018年平昌オリンピックと合わせて合計7個のメダル獲得ということになりました。本当におめでとうございます。日本オリンピック史においてもすでに伝説的な存在となりつつありますが、率直な感想をお願いします。
ありがとうございます(笑)。そう言っていただけるのはうれしいことなのですが、メダルの数については競技特性も影響すると思っています。大会ごとに1種目しか出場できない競技もありますし、私たちのように複数種目に出られる競技もあります。メダル数の重みを比較することはなかなかできないので、私自身はメダルの数にあまりこだわりはありません。メダル一個一個にたくさんのドラマが詰まっているので、それを大事にしたいと思っています。
――そう伺うと、たしかに同じ銀メダルですが、1,500mでは悔しさ、500mでは喜び、チームパシュートでは切なさ……とそれぞれ複雑な心境や感情が込められているように感じますね。
はい。今まさにおっしゃっていただいたように、同じ色のメダルでも、これほど感情が変わるものなのだと強く感じたオリンピックでした。自分でもすごく不思議な感覚ではありました。
私自身、1,500mに懸ける気持ちは大きかったのですが、だからこそ、走り終えた後に悔しさがにじみ出る感覚が強かったです。プレッシャーから来る緊張は、平昌オリンピックの時ほどは感じていなかったつもりなのですが、自分なりに守りたいもの、とりたいものが強くあって、レースが終わってみてはじめて背負っていたものの重みを実感しました。ただ、悔いのようなものは全くないですし自分自身を誇らしく思えました。
一方で500mに関しては、チャレンジすることが私自身すごく好きで、だからこそ楽しいと実感できました。あらためて、スピードスケートをする理由を考えた時に、挑戦したい気持ちが原動力になっていると感じることができたのがこのレースだったと思います。
――そのような中で、1,000mでは見事に金メダル獲得となりました。ご自身、ワールドカップで初めて表彰台に上がったのも1,000mだったとおっしゃっていましたが、金メダルだと決まった瞬間はどういうお気持ちでしたか。
メダルの色が金だと分かった時は、長かったオリンピックの特に前半のことを思い出しながら、いろいろな感情がこみ上げて来てそれをかみしめるような気持ちでした。一人ではここまで走り切れなかったと強く感じましたし、私自身の最終種目でしたが、チームのみんなでとれた金メダルだったと思っています。
――その最終種目で疲労もピークだったと思うのですが、その中で、オリンピックレコードという滑りでした。
ゴール直後は、ただ「やった!」という気持ちでした。なにか深いことを考えるわけでもなく、達成感と爽快感に包まれていました。
■重責を担う立場になって
――初出場の2010年バンクーバーオリンピック、出場できなかった14年ソチオリンピック、金・銀・銅メダルを獲得した平昌オリンピック、そして今回北京2022冬季オリンピックでは、TEAM JAPAN北京2022の主将としての重責も担いました。あらためて、髙木選手にとってオリンピックとはどんなものなのでしょうか。
北京2022冬季オリンピックで強く感じたのは、オリンピックは「本気を味わえる場所」だということです。本気で悔しいと思ったり、本気で悲しいと思ったリ、本気でやるせないと思ったり、本気でうれしいと感じたり。「やった!」と思う気持ちも、全てみんなが本気の気持ちで挑みに来る舞台だからこそ味わえるのだと強く感じています。私にとっても本気になれる場所なのかなと思います。
――JOC(日本オリンピック委員会)のシンボルアスリートという立場でもあります。注目される立場になっていることはどのように受け止めていますか。
周囲から注目されることについては、平昌オリンピックが終わってから経験できたことでもありました。責任ある行動をとらなくてはいけないということに関しては、たしかにしっかりしなくてはと思う場面も多々あるのですが、自分の中で特別に変えなくてはいけないことではないとも思っていました。
TEAM JAPAN北京2022の主将を引き受けると決めた時も、皆さんを引っ張っていくことはできないだろうと思っていましたし、逆に、皆さんに助けられながら一つのチームになっていきたいと考えていました。主将だから結果を残さないといけないとは全く考えていなくて、どんな立場でも結果を残したいと思っていたからこそ、チャレンジをしても良いかなと思い主将を引き受けたのです。責任感やプレッシャーをあまり感じなかったように、精神的な面で成長できたことも大きいと感じています。
――ライバルであり先輩でもある小平奈緒選手に対しては、髙木選手はどのような思いを持っていらっしゃいますか。
小平選手は、一緒にレースをするのが楽しいなと思える選手の一人です。そう思える人はなかなかいないのですごくありがたいですし、そういう選手と同じ時代に滑れて良かったなと強く感じています。小平選手の姿勢など、学んだこともたくさんあります。12年前、バンクーバーオリンピックで一番身近で最初に見たメダルも、小平選手たちが出場されたチームパシュートの銀メダルでした。私がスケートに目覚めて、成長して、速くなってこられたのは、小平選手の存在も大きかったと思っています。
――お疲れのところ、本当にありがとうございました。スピードスケート界のリーダーとして、今後のご活躍を祈念いたします。
ありがとうございました。
「JOC Vision 2064」は、JOCが長期的に追い求める“ありたい姿”を表したもので、1964年の第18回オリンピック競技大会(東京)から100年となる2064年をビジョンの名称に織り込み、「東京2020大会をみた子どもたちが、未来の社会を動かす中心にいてほしい」という思いを込めて、「JOC Vision 2064」としました。
「JOC Vision 2064」に基づく活動指針のひとつが「スポーツで社会課題の解決に貢献(さまざまなスポーツ団体と連携し、スポーツの力を結集し国際社会が抱えるあらゆる課題の解決に貢献する)です」
JOCは、これまで「スポーツと環境ポスター」などの環境啓発活動や、「東京2020D&Iアクション宣言」等、持続可能な開発目標(SDGs)の取組みを進めてまいりましたが、IOCが「スポーツが寄与する」と掲げたゴールに基づいて、今後も持続可能な社会づくりに貢献していきます。