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仁川アジア大会


第17回アジア競技大会(2014/仁川)

(9)五輪金は18年後 射撃の蒲池猛夫
アジア大会制覇から18年後のロサンゼルス五輪で優勝し、金メダルを見詰める蒲池猛夫(UPI=共同)

アジア大会制覇から18年後のロサンゼルス五輪で優勝し、金メダルを見詰める蒲池猛夫(UPI=共同)

 蒲池猛夫が射撃の道を歩みだすようになったのは自衛隊に入隊した後の1962年、射撃検定で特級の成績を収めたのがきっかけだった。この年に64年の東京五輪に向けた強化の一環として自衛隊の中に体育学校が設立され、蒲池は1期生として持ち前の射撃の才能を磨いた。東京五輪出場には間に合わなかったが、1966年にバンコクで開催されたアジア大会で大舞台を経験した。もっとも得意な種目、25メートル先の標的めがけて速射するラピッドファイアピストルで見事に金メダルを獲得した。

 年齢はすでに30歳を過ぎていたが、アジアでの躍進をきっかけに蒲池には日本の第一人者として五輪での活躍の期待がかかるようになった。しかし、五輪には68年メキシコ五輪から3大会連続で出場したものの、納得のいく結果を残すことができなかった。アジア大会にも3度出場したが、個人での金メダルには届かなかった。精神面での弱さに気付いた蒲池は、精神力を高めるトレーニングを自ら発案する。線香の火に向かってイメージの中でピストルを撃つ。1976年のモントリオール五輪が終わってからロサンゼルス五輪までの8年間、蒲池は毎日20分間、このトレーニングを繰り返したという。努力は米西海岸の舞台で結実した。ラピッドファイアピストルで日本選手団の金メダル第1号となり、史上最年長の48歳というおまけまでついた。アジア大会で金メダルを獲得してから、実に18年後の五輪制覇だった。

 クレー射撃では麻生太郎副総理(元首相)が1974年のテヘラン大会スキート個人で金メダルを獲得している。(共同)

 
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