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仁川アジア大会


第17回アジア競技大会(2014/仁川)

「限りなき前進 アジア大会」
(1)1951年に第1回大会 日本も参加しニューデリーで
第1回大会の開会式で入場行進する日本選手団

第1回大会の開会式で入場行進する日本選手団

 アジア地域の五輪ともいわれるアジア大会が始まったのは、第2次世界大戦後の1951年だった。記念すべき第1回は開催に向けて主導的な役割を果たしてきたインドのニューデリーで行われた。大会は日本、中国、フィリピンなどが参加して戦前に10度開催された極東選手権と、1度だけ開催された西アジア競技大会を併合する形で誕生した。敗戦国となった日本は終戦からまだ間もない1948年に開催されたロンドン五輪にはドイツとともに参加を認められなかったが、アジア大会には第1回から選手団を派遣することができた。日本にとっての実質的な国際総合大会への復帰となった大会だった。

第1回大会の開会式で入場行進する日本選手団第1回大会に出場した日本のバスケットボール代表

第1回大会に出場した日本のバスケットボール代表

 アジア大会の創設に関しては、インドの働きかけが大きかった。インド人の国際オリンピック委員会(IOC)委員、ソンディ氏の提案でアジアからロンドン五輪に参加したインド、フィリピン、朝鮮、中国、セイロン(現在のスリランカ)、ビルマ(現在のミャンマー)の6ヵ国の代表がアジアのスポーツの将来について話し合いの場を持ち、アジア地域での国際総合大会を4年に1度ずつ、五輪の中間年に開催することで一致した。この大会を開くための組織として、後にアジア競技連盟(AGF)となる統括団体を設立し、第1回大会を1950年にニューデリーで開くことを決めた。しかし、大会で使用する器具の調達などが大幅に遅れ、実際に開催にこぎ着けたのは1951年3月のことだった。1950年に開かれたAGF総会で、日本の国内競技団体が国際競技団体に加盟を認められればアジア大会に参加可能との決議がなされていたことで日本にも出場の道が開かれた。

 実施されたのは陸上、水泳、サッカー、バスケットボール、重量挙げ、自転車の6競技だった。日本は水泳を除く5競技に総勢65人の選手を派遣した。戦争の傷跡がまだまだ色濃い時期で、フィリピンが日本の参加に反発するなど日本選手団への風当たりは強かった。日本軍の将校だった選手に渡航許可が下りないなどのトラブルもあった。

 それでも陸上では圧倒的な力を見せて20種目を制したのをはじめ、参加国・地域で最多となる金メダル24個を獲得した。反日感情は強かったが、日本選手団は紳士的な振る舞いで友好の礎を築き、当時の米タイム誌は「日本は友好と競技の二つを勝ち得た」と伝えた。

 第2回は1954年にフィリピンのマニラで開催された。ここでも日本は陸上で17、水泳で12種目を制するなど、計38個の金メダルを手にし、地元開催となる第3回東京大会に向けてアジアスポーツ界の盟主としての地位を固めていった。(共同)

 
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