オリンピックの歴史
大観衆を熱狂させた世界初の「マラソン」
開会式と陸上競技は新設のパナシナイコ・スタジアムで行なわれました。この競技場は古代オリンピックにならい、トラック(1周330m)の直線が極端に長く、コーナーはヘアピンカーブ。スタンドは総大理石造りで5万人収容。第28回大会ではマラソンのゴールとアーチェリーに使われます。
陸上はアメリカが圧倒的に強く、12種目中、9種目に優勝。100mに12秒0で優勝のトマス・バークは、手をスタートラインにつけてからスタートするクラウンチング・スタイルを披露。各国を驚かせました。体操はドイツ、自転車は発明元のフランス、テニスはイギリスと、早くもお国ぶりが発揮されました。
こうした中でハイライトとなったのは、世界で初めてのマラソンでした。古代ギリシャとペルシアが戦争し、マラトン(英語読みでマラソン)の野でギリシャがペルシアの10万の大軍を破った時、伝令がアテネまで約40kmを走り抜き、勝利を伝え終わって息絶えた故事にちなんだもの。フランス学士院会員ブレアル教授の提案をクーベルタンが採用した、といわれます。
これまで、このような超長距離走は例がなく、どういう結果になるか、関係者には不安もありましたが、大会最終日の4月14日に行なわれたレースには25人が出場、ゴールまであと7kmの地点でトップに立ったギリシャの羊飼いスピリドン・ルイスが、2時間58分50秒で優勝、大観衆を熱狂させました。興奮のあまりスタンドから飛び降りたギリシャのコンスタンチヌス皇太子と弟のジョージ親王が、ゴールまでルイスと一緒に走ったほどでした。
ちなみに、後に国際陸上競技連盟の指示でコースの距離を計り直したところ、36.750kmだったそうです。今のように42.195kmと定められたのは1924年の第8回パリ大会からです。
雨のため、閉会式はマラソンの翌日の4月15日に行なわれ、優勝者には皇帝自ら銀のメダルと聖地オリンピアでとったオリーブの一枝を、マラソンのルイスには、別に ブレアル教授寄贈のマラソン・カップを授与しました。金・銀・銅メダルの制度は1907年のIOC会議で決まり、翌年の第4回ロンドン大会から正式に始まったものです。
第1回大会で優勝者を出したのは10ヵ国で1位はアメリカ11、2位は地元ギリシャ9、3位ドイツ6.5。当時は国別参加でないため、テニスのダブルスには国際ペアも出場、イギリス/ドイツのペアが優勝したため、ドイツは0.5勝を得たのです。
最後になりましたが、前に述べたように、第1回大会に女性の参加はありませんでした。これはクーベルタンが「女子が観客の対象になるのは好ましくない」と反対していたから、といわれています。当時のヨーロッパでは「女性は家庭を守る良妻賢母が望ましく、スポーツは女性の体によい影響を与えない」とする風潮が一般的でした。良家の子女はともかく、一般の女性がスポーツの機会に恵まれていなかったのも事実でした。しかし“女人禁制”は参加規則で決まったものではなかったので、この“カベ”は4年後の第2回パリ大会で、早くも破られることになりました。
(文:後藤忠弘 Photo:フォート・キシモト、AFLO SPORT(ポスター・メダル))
- 1896年、14ヵ国・241人の選手がアテネに。 第1回オリンピック競技大会
- 国際競技団体も統一ルールも無い時代
- 大観衆を熱狂させた世界初の「マラソン」