Japanese Olympian Spirits
第一章 虚弱児童、レスリングに出会う
私は小学校時代までは背も小さく、虚弱児童でした。学校の朝礼で校長先生の話が15分も続くと、気持ちが悪くなってしゃがみこんでしまうような子でした。丈夫になったのは“戦時中”という時代のせいでしょうか。
話が前後しましたが、私は昭和4(1929)年7月28日、山形県の県庁所在地、山形市に生まれました。小学校6年の時、太平洋戦争が始まりましたが、私は将来、貿易をやりたいと考え、中学(旧制)は山形商業(山商)に進みました。
市の北にある家から南の学校までは4キロ余り。3年になると勤労動員で飛行機工場で働きましたが、ここも家から4キロ余ありました。それで卒業までの5年間は毎日、往復8キロ余を歩いて通ったわけです。学校では柔道、剣道、銃剣術が正課で、手榴弾投げなど、配属将校が見守る軍事教練もあり、体が弱いもヘチマもありませんでした。
貿易をやりたいと考えて山商に進んだのに、最初は英語がとても苦手でした。しかしある時、英訳の先生に「どの学科にしろ嫌いなものがあれば、好きになるまでやってみよう」といわれ、そこでハッと思った私は、その日からチャレンジを思い立ち、勤労動員の往復にも単語カードを1枚ずつめくりながら歩きました。
やがて終戦。山形の近くの神町に米空軍師団が駐留しました。山商を卒業していた私はチャンスとばかり、キャンプの通訳さんのところへ通っては会話を習い、要員採用試験の“傾向と対策”も仕込みました。おかげで無事、試験を通り、文書管理の仕事を担当しました。
日本人は私ほか数人。初めて聞く生の英語。最初は死ぬ思いでしたが、この時のバイト経験は今日に至るまで、私のさまざまな仕事に役立っています。
山商の部活では先生にすすめられ剣道をやりましたが、実は柔道の方が好きだったので、家の近くにある桜武会という町道場に通っていました。そこで知り合った山商の先輩、三条さんという人が、大学へ行ったら柔道部がないため、似た競技のレスリングに転向したんです。
戦後、占領軍の命令で(町道場なんかはお目こぼしになったけど)表立っては禁止されていました。で、その三条さんが帰郷した時、「君に合っている」と私をレスリングに誘ったのです。私もすっかりその気になり、キャンプ勤めで貯めたお金を持って、親に隠れて東京に受験に行きました。
ここから私のレスリング人生が始まりました。昭和25(1950)年春のことでした。
第二章 レスリングを徹底分析 オリンピックを目指す
中大に進学して、すぐレスリング部に入りましたが、本当のところ、初日からイヤになりました。道場のキャンバスは赤黒く血で染まっているし、汗くさいし。何も教えてもらえないまま、先輩と一緒にトレーニングです。
一番辛かったのは、お相撲さんがやっているでしょ、両脚を左右に180度開く股割り。股関節が外れるほど痛いんですよ。トレーニングをサボると、つかまってぶん投げられました。
キャンバスが硬いので脳震盪を起こし、失神する。目から火が出るといいますが、火の玉がシャボン玉みたいに飛んでいくんです。技を知らないし、体も出来ていないし、2年の始め頃までは何度やめようと思ったか。
やめなかったのは、自分が好きで始めたことだし、体が強くなれば人の3倍、4倍働けると思ったからです。
たまたま、2年生になってバンタム級で学生選手権に出て、決勝までいってしまった。この時の「やればできる」という体験がひとつの転機になり、自分から積極的に取り組むようになったんです。
まず考えたのは、同じ練習時間の中で、なぜ強い人と弱い人ができるのか、でした。それで生活や練習方法まで分析し、わかったのは、ただ練習してもダメで、理屈を覚え合理的にやること、でした。
情報を集めるため、当時、最強の早大、お隣りの明大などに行って、こっそり練習法や技術を学びました。米国人のコーチが書いた本も読んで研究しました。
人と同じことをやっていては同じ結果しか出せない。道場での決められた練習時間だけがレスリングではない。
一日24時間レスリング、の考えに徹しました。到達目標を決め、何を何時間どうやるというプログラムをつくり実行しました。例えば、朝起き出す前に寝床でやれるトレーニングがいくらでもある。腹筋、懸垂、上体そらし、握力・・・そんなことから一日を始めたんです。
体重コントロールも苦労しました。
私は最初、バンタム級で出ていたんですが、減量に苦しみ、最後は1階級上げて、3食きちんと食事するように変えた。それが結果的には成功し、フェザー級でずっと勝ち続けることになりました。
昭和28(1953)年、全日本学生と全日本選手権に優勝。翌29年3月には遠征して全米選手権制覇。大学卒業後の5月、東京体育館こけら落としの世界選手権、ついで全日本に2連勝。
考えても見なかった“オリンピック”が脳裏に浮かぶようになったのは、このころからでした。
第三章 Sasahara's Leg Scissors 世界を制す!
メルボルンオリンピック(昭和31・1956年)には、最初から金メダルを取るつもりで行きました。
日本のスポーツ界は戦時中、すべての国際組織から締め出されていましたが、戦後、レスリングはいち早く国際レスリング連盟に復帰(昭和24・1949年)、国際交流をはじめました(昭和26・1951年)。
フェザー級第2回戦対サリムン(ソ連)
フェザー級第2回戦対サリムン(ソ連)
当時、日本のレスリングは発展途上にあり、国際交流を積極的に行うことが強くなる近道、と八田一朗・日本レスリング協会会長が考えたからです。
その手始めのアメリカ遠征メンバーに、中大の先輩、石井庄八さんがおり、彼はスピードのある新しいスタイルのレスリングを身に付けて帰国、翌昭和27(1952)年のヘルシンキオリンピックで、日本初の金メダルに輝いたのでした。
これは一緒に練習していた私たちにたいへんな勇気を与えてくれました。「あの人に出来るのなら、われわれだって」ですよ。
前の章で触れたように、学生生活も後半に入り、力のついてきた私も、やがて遠征組に加えられることになりました。
といっても協会には金がないので、皆、自分たちで工面し、アメリカへは最初、貨物船で行きました。遠征試合でも募金し、ヒッチハイク、ホームステイをしました。
メルボルンオリンピックまでに、ほかにも、ロシア、トルコ、イラン、ブルガリア、ルーマニアなど強い国は全部回り、世界の主なライバルとは全部、複数回対戦しました。
彼らのレスリングは全部頭の中に入っており、そのイメージをもとに、それらの相手一人ひとりと、何度やっても絶対に勝つ練習を繰り返しました。
ですからメルボルンでは、だれと何回戦であたろうが、恐れることは何もありませんでした。冒頭で述べたように、最初から勝つつもりで参加し、考えた通りの結果を挙げることが出来たのです。
メルボルンに私は“必殺技”を持っていきました。英語で「ササハラズ・レッグシーザーズ(Sasahara’s Leg Scissors)」と命名されて有名になった「股裂き」です。
東京世界選手権で、実はトルコのバイラムというヘルシンキオリンピックの金メダリストに、寝技で背面から片脚を入れる技を仕掛けられ、股関節が外れると思うぐらい苦しみました。それで私はこれを徹底分析、片脚を入れてからテコの原理を応用した技を使って決める、新技を開発しました。
3ヵ月かかりましたが“本番”では絶大な威力を発揮し、私の金メダル捕りの武器として活躍してくれました。
第四章 0歳から100歳までスポーツを!「体力つくり指導協会」発足
メルボルンオリンピックを最後に、競技者生活から引退しました。大学4年での全日本初優勝から、ここまでの200連勝を記録、区切りもよく、すでに27歳で、体力的にもピークを過ぎていました。大学は2年前の昭和29(1954)年に卒業しており、オリンピック目指しての練習に専念するのに、いわゆる普通の就職は無理なので、それまでは大学の体育系の学友会に職員として残らせてもらっていたのです。
しかし、メルボルンが終われば、はっきり進路を決めなければなりません。さまざまのお誘いもありましたが、結局牧場をやろうかと考え、まず乳業会社へ入ったんですが、昔から父に「サラリーマンになるな、自分で自分の仕事を見つけろ」と言われていたことを思い返し、1年でやめ、アメリカに行きました。貿易のことが頭にあったからです。
帰国後、スポーツ用品のアメリカへの輸出を始め、次にユニバーサル・トレーディングという会社をつくり、いろんなことをやりました。今流行のスポーツドリンクなど手がけたのは私が日本で一番早かった。
メルボルンの次のローマオリンピックで日本は惨敗しました。トレーニングと食事、栄養補給などの研究が遅れており、選手に体力がなかったからです。私は当時、自転車の栄養ドクターだった先生のご教示などを得て、小麦胚芽からの飲料をつくり始めました。ただ、残念ながら市場化には20年ぐらい早すぎたようです。
そんなことで、日本人の健康や体力などについては、いつも気になっていました。東京オリンピックの開会式・入場行進で、日本選手の背丈がひときわ低いことに、あらためて「なぜ?」と疑問を持ちました。
そして運動・栄養・健康管理が三位一体にならないと日本人の体力は出来上がらないと考えて、立ち上げたのが「体力つくり指導協会」(昭和41年発足、43年、前厚生省の財団法人に)でした。
健康な母体から健康で生まれ、健康で生涯を過ごす。そのためには体力づくりが必要であり、体力測定の上、何をどうすればよいか、運動、食事、健康管理全般にわたってメニューをつくり、運動を指導します。施設、つまりハードは自治体の協力を得、協会はソフトを提供するわけです。
(財)宝くじ協会寄贈の宝くじ号に指導器材を積み、「ゼロ歳から100歳まで」を合言葉に当初の3年で北海道から沖縄まで全国延べ43,000kmを回りました。
農・漁村を回り、日本では初めて「幼児」体育まで手掛けました。
第五章 ”Sports for All, World for All”を究極の理想として
日本代表選手団副団長
オリンピックで金メダルをとり、引退してから、もう49年になります。その間、日本レスリング協会の会長、国際レスリング連盟副会長、日本オリンピック委員会副会長、日本体育協会理事、オリンピック日本代表選手団副団長(アトランタ、シドニー)など、さまざまな役職を務め、第一線競技スポーツ界の発展に微力を捧げてきました。
しかし、一方では、前の章で述べたように広く国民の健康と体力づくりでも実践活動を続けてきました。子供時代、体が弱かった私が強くなった経験をふまえ、世の中に恩返しをしたいと思ったからです。
バウンドテニスという、レスリングに関係のない大衆競技を開発、ルールから用具まで考案、全国普及を図ったのもそのためです(昭和62年発足)。いまでは日本体育協会に加盟し、スポーツレクリエーション祭の種目になっています。
長野冬季オリンピックで選手村の村長を務めた時に浮かんだアイデアがあります。
選手村は世界中(長野で72、2004年アテネでは202の国と地域)の人々が起居する平和な国際都市です。それで“世界はひとつ。スポーツで世界の手をつなごう”のオリンピック精神と結びついたスポーツ・コミュニティをつくれないものか、と思ったのです。
自然に帰り、太陽の下できれいな水と土をいじりながら、体づくりのスポーツをする。まだ具体的な話をする段階ではありませんが、すでに構想はできています。
夢みたいな話、といわれるかもしれませんが、その夢の実現に私は今後の人生を捧げていきたいと思います。スポーツ・フォア・オール。ワールド・フォア・オール。これが私の究極の理想です。
私は75歳になりますが、道場に行けない日は家でできる練習をし、これまで1日もレスリングから離れたことはありません。おかげで体重は選手時代と少しも変わりません。
私は、スポーツは人間が強く生きていくためにあると思っています。人に迷惑をかけず、情報に流されず、ストレスに負けず、丈夫で仕事を続け、人生を全うする。
人生は自分の責任であり、高齢化社会ではこのことが以前にも増して大切です。健康であればこそ、人生を楽しく過ごせます。それにはスポーツほどいいものはありません。
スポーツをやることによって仲間が増え、人への理解も深まる。スポーツ以外でも交流が広がる。それが社会平和のもとでもあると思います。それでは皆さん、今後ともますます、お元気で!
国立オリンピック記念青少年総合センターにて
シリーズ第四回:小野喬・清子
シリーズ第三回:竹宇治聡子
シリーズ第二回:笹原正三
シリーズ第一回:古橋廣之進