MENU ─ オリンピックを知る

Japanese Olympian Spirits

第一章 豆魚雷あらわる。

生涯をかけることになる"水泳"との出会いは、浜名湖畔のプール。毎日「魚に負けるものか」と、夢中で泳いだ少年時代。初めは泳げなかった古橋少年が、小学6年生で学童新記録を達成!地元紙は"豆魚雷あらわる"と大きく報道したのだった。

父・宇八氏
母・なをさん

私は9人きょうだいの3番目で、長男として静岡県・浜名湖東岸の雄踏町(ゆうとうちょう)に生まれました。1928(昭和3)年9月16日のことです。9人といっても当時は驚くほどのことではなく、どこでも子沢山でした。 親に代わって、上の子から順に弟や妹の面倒を見る。弟や妹は知恵、知識、力に勝る兄姉になんでも学ぶ。一方では食事の時など、食卓のどこに座るかで、おかずの取り合いに有利不利が出るため、競争がある。こうした"協調と競争"の原理の中で、子供は人生のノウハウを身につけ、自然に親の手伝いもするようになる。家庭自身が学校でもあり、小さな社会でもあったのです。

父は体が大きく、米俵など軽々とかつぐ力持ちで、祭の時など相撲大会に出るような相撲好きでした。そんな父に「大きくなったら相撲取りになるか、それとも奉公に行くか」と言われ、私は奉公に行くよりは相撲、と心に決めていました。

ところが私が小学校4年の時、篤志家が地元のためにと浜名湖畔の一角を板で仕切り、岸にはスタンドをつけたプールを造ってくれました。そのプール開きに私を連れて行ってくれた父が、どうしたわけか私に、「お前も水泳選手にならんか」と。それが水泳を始めたきっかけになりました。

何とか学校の水泳部に入れてもらい、多くの先輩に手取り、足取り泳ぎ方を教えてもらい、それから夢中になって泳ぎました。板で仕切ってあるといっても水面に近い部分だけで、下は塩水の浜名湖につながっており、魚がプールに入ってきます。私は毎日、「魚に負けるものか」と、自分が魚になったつもりで泳ぎました。

5年生の春、学校で大掃除中、ポンプのスイッチを入れようとして感電。右手中指が離れなくなって、あやうく死にかけました。事実、家には「死んだ」と知らせが飛んだようですが、幸い心臓が強かったので助かったのだと、あとで教えられました。

それで生まれ変わったわけではないでしょうが、6年になって静岡市で行われた県大会で、自由形の100mと200mに学童の全国新記録で優勝できました。これが私の"新記録史"の第1ページでした。翌日の地元紙に私は"豆魚雷あらわる"という見出しで大きく紹介されました。

第二章 厳しい選手生活のスタート

左手中指の切断という戦時中の不運な事故、戦後の食糧難、交通事情の悪さから何時間も移動に費やさねばならなかった日々…。条件の悪さを人一倍の練習量と工夫でカバーした日大での選手生活は、想像以上に厳しいものだった。しかし、初の三大学対抗戦、第1回国体(兼日本選手権)、琵琶湖横断1万m競泳で次々に優勝を果たし、苦労は喜びに変わっていった。

昭和22年・神宮プール

中学(旧制 浜松二中、現 浜松西高)に進学した年の暮れ、日本は米英などの連合軍相手の太平洋戦争に突入。このため私の水泳も2年の夏の県中学大会で県中学新記録を出し、400m自由形2位となったのを最後に、終戦後まで中断をしいられることになりました。 3年からは勤労動員といって、軍需工場などの仕事に明け暮れる日々が始まり、戦時下の特例で、中学は4年終了で"繰り上げ卒業"し、日大(理系予科)に入った年の1945(昭和20)年8月15日に終戦を迎えるまで、同じような状態が続きました。 中3の動員中、歯車に左手を噛まれ、中指を第一関節だけ残して切断する事故に見舞われました。すでに水泳どころではない時代でしたが、このけがは手で水を掻くスイマーにとっては致命的であり、「もう自分の水泳も終わりだな」と思ったのを覚えています。

しかし、終戦で大学に復帰し2年に進んだ春、学友が水泳部員募集の張り紙を見て私に教えてくれ、それがきっかけで私は水に戻ることになりました。交通事情が悪く、超満員の電車が、それも1時間に数本しか走らない時でしたが、それからの私は鶴見(横浜)の下宿から藤沢のキャンパスに通い、授業が終わると小田急で東京のプールへ。練習を終えて再び鶴見へという、電車に乗っているだけで小半日かかる、大移動の生活がスタートしました。

最初は東松原の日本学園のプールを借りての練習でしたが、やがて目黒区碑文谷の大学プールが修理を終えて使えるようになり、ここで7月に日大、立大、明大の三大学対抗戦が開かれました。近所の家の水圧が下がり、水が出なくなるので、プールへの注水は主に夜中にやりました。コースロープは縄をなって作り、ピストルは進駐軍につかまるとかで使えず、手を打ってスタート合図。計時は腕時計で、という"手づくり"の大会でしたが、私はこの初めての学生大会で400mと800m自由形に優勝できました。

先輩に誘われ、8月には宝塚の第1回国体兼日本選手権に参加し、400mに優勝しました。列車には跳び乗り、跳び降りの無賃乗車、途中の主要駅で下車し、学校のプールをさがして練習させてもらい、用務員さんから一夜のやどりとメシ代わりのサツマイモをご馳走になっての、珍道中でした。 帰路、琵琶湖横断1万メートルに3時間14分16秒で優勝。和歌山の水泳講習会で優秀な選手に出会い、日大への進学を勧めました。それがやがてライバルとなる橋爪四郎君でした。

第三章 幻のオリンピック金メダル

昭和22年の日本選手権、古橋はついに世界新記録を打ち出した。世界を打ち破ったその記録は、敗戦で意気消沈していた日本に、勇気と感動を与えたのだ。そして翌年、日本の参加が許されなかった、無念のロンドンオリンピック。同日、同時刻に開いた日本選手権で、オリンピックの優勝者よりもはるかに上回る世界新で2種目を制覇した。日本が参加できていれば、彼は間違いなく2つの金メダルに輝いていたのだ。

昭和22年・神宮プール
昭和23年 神宮プールで橋爪選手と

当時、プールはすべて屋外だったので、短いシーズンに大会が目白押し。国体から帰った私も息つく暇もなく、9月の学生選手権に出場。ここでも400mと800m自由形に優勝しました。

シーズン初めの三大学からここまで2ヵ月で、400mの優勝タイムは11秒6も縮めました。 日大にはまだ監督もコーチもおらず、選手はみな自分で泳ぎを工夫し、練習プランを立てたのです。ことに私は左手中指のことがあったので、人一倍の努力が必要で、練習量も一日2万メートルは珍しくありませんでした。 一方では練習にも大変だろうということで、予科を都内にキャンパスのある文系に変えてもらい、戦災にあった人々が入っていた碑文谷の合宿所の一角に入所できたなど、練習条件がよくなったことも、記録の向上にプラスしたと思います。

戦前から水泳のメッカといわれた明治神宮外苑プールは、戦後、進駐軍のレクリエーション施設として接収され、「フンドシという野蛮なものをはくから」と、日本人は出入禁止でした。しかし、1947(昭和22)年になって、スフという人造織物製の、薄くてペラペラながら水泳パンツが選手に1枚ずつ配給されたので、「これをはくから」と進駐軍にかけ合い、ここで日本選手権を開催できました。

この大会の400m自由形で、私は準決勝では4分38秒8(長水路の記録を破る)、決勝では4分38秒4(短水路の記録も破る)と、続けざまに2つの世界新で泳ぎました。残念ながら日本は国際水泳連盟(FINA)から除名されており、これは公認記録にはなりませんでしたが、スタンドには天皇陛下、皇太子殿下もお見えになっており、感激した片山哲首相からは、特別に総理大臣杯を贈ってもらいました。

翌1948(昭和23)年、戦後初のオリンピック、ロンドン大会にも日本は参加できませんでした。しかし、これを残念に思った(財)日本水泳連盟は、オリンピックの水泳競技と同じ日程で日本選手権を神宮プールで開催し、記録比べをやったのです。 その結果は、男子の個人5種目中、自由形400mは、1:古橋4分33秒4、2:ウィリアム・スミス(米)4分41秒0、同1,500mは、1:古橋18分37秒0、2:橋爪18分37秒8、3:ジェームズ・マックレーン(米)19分18秒5。もし日本が参加できていれば、世界新記録で金メダル2個、銀メダル1個に輝いているところでした。

私たちの記録が伝わると、ロンドンでは信じない人々もいたそうですが、私は9月の学生選手権(甲子園)で400mに4分33秒0、800mでも9分41秒0の、ともにそれまでをしのぐ最高記録の世界新で泳ぎ、再び世界に対し記録がフロックでなかったことを示しました。

第四章 世界に羽ばたいたフジヤマのトビウオ

初の海外遠征、アメリカ全米選手権への参加。戦後まもないアメリカは、日本人を「ジャップ」とけなし、日本の記録をまったく信じていなかった。 しかし、大会初日に日本チームは世界新を連発し、水泳大国アメリカに圧勝!報道はすぐに非礼を詫び、古橋を"フジヤマのトビウオ"と絶賛した。 アメリカ中がその驚異の記録に沸き上がり、そのニュースはすぐに世界へ広がった。

昭和24年 ハワイにてウィリアム・スミス選手、
村上トレーナーと
全米選手権・トロフィーを持って

そのころ日本が世界に勝てるものは水泳だけでしたから、人気もたいしたものでした。今では誰も信じられないかもしれませんが、プロ野球(まだ1リーグ制)事務局が試合日程を組むのに水連に水泳の予定を調べに来たりしたんです。

そんな折の1949(昭和24)年6月15日をもって(財)日本水泳連盟は国際水泳連盟(FINA)に復帰を果たしました。まもなく、邦人の多いハワイから日本の水泳に招待が来たのです。それで日本は、「どうせならアメリカ本土(ロサンゼルス)にも行って、全米選手権に出られれば」と考えて先方へ電話すると、あちらは「ウエルカムだ」と。それで初の海外遠征が決まり、代表選考を兼ねた日本選手権の結果、日大勢(浜口喜博、橋爪四郎、丸山茂幸、私)と、早大勢(村山修一、田中純夫)の6選手が選ばれました。大会には天皇・皇后両陛下もお見えになり、私たちを激励してくださいました。

ただ、当時の日本は占領下にあり、通常ではビザなどもらえない。それで占領軍総司令部に事情を伝え、最後には私たちが最高司令官マッカーサー元帥に面接の上、サインした書類をもらいました。元帥は、かつてオリンピックアメリカ選手団の団長も務めた人で、「堂々と戦ってアメリカをやっつけて来い。でないと帰りのビザは知らんよ」と冗談半分に私たちに気合を入れてくれました。

国際復帰はしたものの、アメリカの対日感情はまだ悪いと聞き、新調のブレザーの胸には日の丸はやめ、日本水連のマークをつけました。現地では和田勇さん(故人、のちJOC名誉委員)の立派なお宅に滞在させていただき、筆紙に尽くせぬおもてなしを受けました。

しかし現地の空気は悪く、地元紙は「日本の時計は周りが遅い」「プールが短い」など、私たちの記録にもケチをつけ、私たちを蔑称の「ジャップ」で呼びました。 しかし、四日間にわたる大会の初日の予選から新記録を連発すると、たちまちにそれまでの非礼をわび、私たちを「ジャパニーズ」と呼びなおし、私には"フジヤマのトビウオ"の愛称をつけてくれました。 市民も街頭で出会うと、パーカーの万年筆などを「記念だ」「土産に」と贈ってくれ、ポケットが一杯になったほど。私はアメリカ人の率直さと度量の大きさを痛感させられました。

結局、私たちは出場した自由形(リレー含む)6種目中5種目を制し、延べ9つの世界新で水泳王国アメリカが腰を抜かす大活躍。 私自身は400m4分33秒3、800m9分35秒5、1,500m18分19秒0で、全て世界新。800mリレーでも世界新のアンカーを務めました。

第五章 覚悟していたヘルシンキオリンピック

日本にとって16年ぶりのオリンピック参加。日本中の期待を背負って出場したヘルシンキ大会は、8位という無念の結果に終わった。その裏には、南米遠征で飲んだたった1杯の水が原因で、体調不良に陥った古橋の苦悩の日々があった。これが選手としての最後のレースになると、彼は覚悟を決めていた。

昭和25年 戦後はじめて海外で日の丸が
掲揚されたサンパウロ

全米選手権遠征で忘れられない思い出があります。最後のレースを終え、水から上がった私の所へアメリカ人が来て、私の水泳パンツを指さしました。 通訳に聞いてもらうと、「そのパンツをくれ」。脱いで渡すと、その下にはいていたフンドシを見て、「それも欲しい」と。 この人はヘルムス・スポーツ記念財団の館長で、あとで連れられていくと、数多くの有名選手の記念品にまじり、私のフンドシもローマ字の「FUNDOSHI」という説明つきで展示してあり、びっくりさせられました。

マッカーサー元帥は私たちの健闘をたたえ、「国際競技大会での行動には、よく国民の本性が表れる」「日本は今後、重要な国際的責任を果たすべきときに直面しても、立派にやってのけるだろう」と過分のメッセージを発表してくれました。

翌年2月から約3カ月間、全米水泳にでた3人の仲間と南米5カ国を回りました。現地日本人会の招きでした。ところがその最初の訪問地ブラジルで、私は思いがけない不運に見舞われました。生水は飲むなといわれていたのですが、ある日、部屋に飲料水が置いてあり、ボーイが「消毒してある」というので、ついコップに一杯の水を口にしました。 ところがその晩から猛烈な下痢に襲われ、アメーバ赤痢とわかりました。

抗生物質もない時代、公表すれば隔離されてしまうというので、じっと部屋に閉じこもり、皆の移動についていくのがやっとでした。それでも帰国途中立ち寄ったエール大学(米)で、有名なキッパス監督に「実は切符もすでに売っているから」と、留学していた440ヤードの世界記録保持者ジョン・マーシャル(豪州)との一騎打ちを頼まれ、やむなくOKして、さいわいタッチの差で勝つことができました。

しかし、帰国後もその後遺症には長く悩まされました。以前のようには体がいうことをきかず、その夏の日米対抗大阪大会では880ヤード自由形でフォード・コンノに敗れました。宝塚国体以来、5年ぶりの2着。そしてご存知のように1952(昭和27)年のヘルシンキオリンピックでも、400m自由形で8位という不振に終わってしまったのです。

南米遠征の翌春に大学を卒業。競技生活もやめるつもりでしたが、日本にとって16年ぶり、戦後初のオリンピックを前に、周囲の事情はそれを許しませんでした。 私の不調は一時的なものと思われており、"本番"では日本選手団全体の主将でもあったため、私も努力を続けたのですが、事態は変わりません。そのため、レースの結果については、ひそかに私も覚悟をしていました。

第六章 日本水泳界の立役者に

選手引退後の古橋は、大同毛織に就職。入社2年目でオーストラリアへ資格取得のための出張を命じられ、ここでも並々ならぬ苦労が待っていた。しかし、苦労を力に変える古橋は、このオーストラリアでの経験をも活かし、帰国後は、日本の指導者としてスポーツ界を支えていった。ヘルシンキオリンピックから、全ての夏季オリンピックに参加した日本のオリンピアンは、後にも先にも彼ひとりである。

昭和60年 ユニバーシアード神戸
組織委員会事務総長
岩崎恭子さんと

ヘルシンキオリンピックの年、私は大学を卒業して大同毛織に入社。競技者としての生活もこのシーズンで終了。あとは水泳をはじめスポーツ団体のお手伝い、母校日大の教職などを通して、後進を指導する仕事を始めました。

しかし、その前にひとつお話したいことがあります。それは、入社2年目の2月から年末まで、羊毛バイヤーの資格をとるため、会社からオーストラリアの羊毛学校へ派遣されたことです。 当時のオーストラリアは有色人種を差別する白豪主義で、戦時中に日本と戦ったため、対日感情が悪く、私は学校のある町では滞在できず、イタリア系のユダヤ人が経営するメルボルンのホテルから2時間も汽車に乗って通学しました。おまけに、オーストラリア水泳連盟の呼びかけで、あるチャリティのレースに出たところ、元軍人からクレームがつき、以後、私はどんな場所でも水泳禁止の処分を受けたのです。ところが、大戦で片手片足を失った人が私を訪ねてきて、「ぜひ私の村で泳いで欲しい」と奥地へ連れて行かれました。貯水池のようなプールでしたが、村人は総出で歓迎してくれ、その記事が写真付きで大きく新聞に載ったことから、私の水泳禁止処分も解除されてしまいました。

この在豪経験が買われ、1956(昭和31)年のメルボルンオリンピックの水泳チームマネージャーに。以後、(財)日本水泳連盟の役員となり、不振だった水泳界再建の目的で競泳委員長に就任し、10年計画を作りました。 その最初の成果が、1972(昭和47)年、ミュンヘンオリンピックでの青木まゆみ選手(100mバタフライ)、田口信教選手(100m平泳ぎ)の金メダルとなって表れたと思います。

スポーツ関係の仕事が忙しくなった折、母校から誘いをいただいたため、1966(昭和41)年、大同毛織を退社させていただき、日大の教職に転じました。 (財)日本水泳連盟ではその後、会長(1985年〜2003年)を務める一方、国際水泳連盟でも1976年から副会長の職にあります。

オリンピックの選手強化・派遣を業務とする(財)日本オリンピック委員会(JOC)関係では、"学生五輪"といわれるユニバーシアードの仕事に関係し、神戸大会(1985年)では事務総長として史上最多106カ国の若い選手を集め、大会を大成功に導きました。

1990(平成2)年から1999年まではJOC会長として、冬季オリンピック長野大会の成功に尽力しました。 選手としてはオリンピックとの巡り合わせが悪く、不運だった私ですが、こうした仕事を通してヘルシンキ大会後も全て(日本が出場しなかったモスクワ大会も含め)の夏季オリンピックに参加し、今日に至っております。

第7章 集中!この二文字を後輩に贈る

「魚になるまで泳げ」古橋の名言である。100分の1秒の間に世界のトップがひしめいている今、「受身の姿勢ではだめ、自ら工夫を凝らす自主的なトレーニングが不可欠」と語る。メディアに囲まれ、物があふれ、目移りや誘惑の多いこの時代に、「なによりも大切なことは"集中"することだ」とも。

私の選手時代は日本が太平洋戦争に敗れた直後で、食糧事情が極端に悪く、口に入るものはサツマイモやカボチャぐらいの時代でした。一日のカロリー摂取量は1,000kcalにも届かず、水泳合宿所にいたカロリー計算の得意な学友が、「おい古橋、お前はまもなく死ぬぞ」と言ったほどでした。

そんなある日、来日したアメリカの生理学者のセミナーで、その学者が私に「そんな栄養で泳いで、記録を出すなんて理屈が通らない」と言うものですから「精神的なものもカロリーになっているんだ」と言い返しますと、彼は黙ってしまいました。

日大水泳部の後輩と
全米選手権のトロフィーを持って

私は後輩たちには「魚になるまで泳げ」と言い続けてきました。そういう気持ちで、練習も量をこなせということです。前にもお話したと思いますが、私は一日2万メートル、多いときは3万ぐらい泳いだこともあります。 泳ぎ込むことによって、体が自然に覚えこむんです。赤ん坊は教えられて歩けるようになるわけじゃない。1歩あるいては転び、2歩あるいては転びして覚えていくんです。

コーチもいない、トレーニング法も確立されていない時代ですから、みな自分で考えて工夫し、50mのスピードを1,500mまで持続させることを目標にしました。 竹の棒の両端に石をぶら下げてダンベル代わりしたりもしました。マラソンのようなこともやり、バスケット、野球、相撲、ラグビーにテニスと、様々なスポーツにも取り組みましたし、進駐軍にたのんでアメリカの水泳の本を取り寄せてもらって、最新のノウハウも勉強しました。強くなるには頭も必要なんです。

終戦直後、少年時代の皇太子殿下(現天皇)の教育係をやった小泉信三さんは「練習は不可能を可能にする」と言われました。けれども、そのための練習にはキリがない。ここまでやったからいい、ということはない。 これもある人の言葉ですが、「ある練習を10回ノーミスでやった。11回、12回と、もっと続ければミスが出たかもしれないが、10回ノーミスに満足してやめてしまえば、そのことはわからずに終わる。そのような自己満足が試合で墓穴を掘ることにつながるんです」と。

練習も、与えられたプログラムをこなすという"受身の姿勢"からは、並の結果しか生まれません。 今の水泳のように10分の1秒、100分の1秒の間に世界のトップがひしめいている時代には特にそれがいえます。メディアに取り囲まれ、目移りするものや誘惑も多い日常生活を送る皆さんは、私たちの時代に比べ気の毒なこともあります。しかし、スポーツの世界を目指せるのは、青春のほんの一時期です。

集中!! この二文字を皆さんに贈って、私の話を終わりたいと思います。

目黒区碑文谷 日大プールにて