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アスリートメッセージ

ボブスレー・スケルトン 越和宏



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大学時代に経験した挫折が、これまでの越選手の基盤になっている

いつしか、思い描いていた夢もしぼんでいった。代わりに大きくなっていたのは、部を辞めようという思いだった。そのための手段を越は画策した。

越は高校時代、スキーで怪我をしたことがあった。それを材料に、練習を続ければ再発すると医者に言われた、と理由にすることだった。怪我したことは事実であっても、嘘である。

部長は了解し、辞めることができた。辛いことから開放されて、羽が生えたかのように遊びに走った。だが、日々遊びにふけるうちに、心の中に沸き起こる感情があった。

人に嘘をついた。そして自分の心にも嘘をついた。

遊んでいる中でも、罪悪感として重くのしかかっていったのだ。引け目から、ボブスレー部の同級生や先輩が歩いてくると隠れてしまうこともあった。そんな自分も嫌だった。このままの状態で卒業していいのか、自問自答を重ねた。やがて、答えは出た。

このままではいけない、嘘をついたことにどこかでけじめをつけないといけない。そして行動を起こした。

かつて嘘をついたボブスレー部の部長に、本当のことを説明した。そしてもう一度ボブスレー部に戻してもらうよう、願い出たのだ。残りの期間、必死にトレーニングに取り組んで大学生活を終えよう、そうすれば罪悪感を払拭できると考えたからだ。簡単に許可はおりなかった。1988年のカルガリー大会を1年後に控えた時期だったこともあって、撥ね付けられた。

それでも越は、何度でも頭を下げた。
「最後には部長さんが折れてくれて、選手に確認してくれて、トレーニングだけならいいよ、と許可が出ました。そこで参加して自分の罪悪感を消す作業をしましたね」

その後、ボブスレーから、スケルトンに転向する。競技が変わっても、罪悪感がかき消えることはなかった。

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当時、日本でスケルトンを知っている人は殆どいなかったが、越選手は決して逃げずに立ち向かった

「ずっと消えないんですね。ボブスレーで練習したって、卒業したって、社会人になったって消えない。一度辛いこと、苦しいことから逃げると一生引きずることになると分かった。じゃあどうすればいいか。それは決めたこと、辛くても逃げない人生を送ることしかないと思ったんですね。それが人にも自分にも嘘をついた償いじゃないかと考えて、ずっとやってきたんです」

だから、端から見て思う苦労を、苦労であるとは思わないと言う。

「スポンサーの獲得、遠征での自分での手配、僕は大変だとは思わなかった。むしろそこから逃げる、難しいと思っていることから逃げるほうが、嘘をついた大学時代に戻るような気がして怖かったんです。それは競技の中でも同じことです。その苦しさを味わいたくないから、オリンピックへのチャレンジの中でも、日々、僕は逃げない、結果を出すんだとやってきて、今までがあったんです。よく、モチベーションをどのように維持してきたのか、支えとなったものは、と聞かれますが、僕の場合、小さな頃の思い、そして大学時代の挫折。この2つだと思います」

いつも熱心に、そして全力で

何事からも絶対に逃げないという決意のもとに歩んできた越は、競技においても、あらゆる面から全力を注いできた。


スパイラルにある用具格納庫で。開発から携わっているソリと一緒に。

例えば、用具の開発もそうだ。

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自分と厳しく向き合ってきたからこそ、20年以上もの間、第一線で活躍することができた
写真提供:フォート・キシモト

スパイラルの一角に、格納庫がある。選手たちが自分の用具をしまっておく場所だ。

越は、自身のソリを取り出した。それを見ると、先端部分の中央のへこみが少なく、フラットに近いことが分かる。

■スケルトンの操作方法について語る、越選手のスペシャルムービー 03:23

「スケルトンのソリは、全長120cmと決められていますが、少しでも長くしたほうが空気を流すんじゃないか、と」

ソリの製作は2000年から、和歌山県の金属加工メーカーの社長の協力を仰いできた。と言っても、基本の開発面に関しては、越が自ら行なってきた。

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2000-01シーズンのワールドカップ第4戦長野大会でも優勝を果たした
写真提供:アフロスポーツ

「こういうのも、好きなんですよね」
越は笑う。メジャーではない競技だから自身で行わなければならない、という事情もあるだろう。だが、熱心さはその理由を大きく上回る。

そして45歳まで競技を続けてこられた理由は、徹底的に肉体を鍛え続けてきたことにある。

「契約トレーナーの松本整さんと出会ったことが大きかったと思います。元競輪選手で、45歳の時に高円宮記念杯で優勝した人なのですが、普通にウエイトトレーニングなどをやっていたらソルトレークシティーだけで終わっていた。松本さんと出会って、体の使い方が変わりました。松本さんから、『Aという人間、Bという人間ができて、越さんにできない理由はない』と言われてきたんですね。それも大きかった。そもそも僕は才能のない選手です。だから人が1日で習得できることを僕は1年かかることもある。じゃあ何が人と違うかというと根性だけです。僕は1年、2年、10年かかっても習得しようと諦めませんでした」

越の練習ぶりは、周囲で見守る人が「死んでしまうんじゃないか」と心配するほどだったという。その取り組みがあったからこそ、30歳を過ぎれば、肉体的にはピークから下降していく中で、驚くほど長期にわたって第一線にいられたのだ。

技術も磨き続けた。ライン取りを研究し続け、スタートの新しい技術に取り組んだ。0.01秒でも早くゴールしたいと、改善に努めた。そんな日々の積み重ねを続けてきた。

初めて出場した世界選手権は29位。以後、24位、16位、9位と順位を上げていったのは、その証でもある。1999年12月には、長野で行なわれたワールドカップ第2戦で優勝する。ソリ系の競技では日本選手として初めてのことだった。

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