アスリートメッセージ
ボブスレー・スケルトン 越和宏
決めたことから逃げない人生を
文:松原孝臣
写真提供:ロイター/アフロ
写真提供:フォート・キシモト
写真提供:アフロスポーツ
2月19日、バンクーバー郊外、ウィスラー・スライディングセンター。この日、スケルトンの3、4回戦が行なわれていた。
越和宏は、前日の1回戦を20位、2回戦は21位。そして3回戦を20位で4回戦に進出していた。
スタート前、表情が張りつめる。スタート。それまでのレースを上回る滑りを見せる。タイムは。バンクーバーでの4レースで、一番のタイムだった。しかし順位は20位。 上位進出はならず、目標としていたメダル獲得もなくなった。越のバンクーバーは終わった。だが表情は、前回のトリノ大会の試合後の涙とは対照的だった。どこか温和な感じがあった。 あれから2カ月近くが経った。
長野県の長野市ボブスレー・リュージュパーク(通称:スパイラル)に、いつもと変わらない精悍な表情で越は姿を見せた。日本の冬季五輪史上最年長の45歳で臨んだ3度目のオリンピックが終わった今、大会をどのように捉えているのか。20年近くの競技人生はどのようなものであったか。
そもそも、45歳に至るまで闘志を駆り立てさせたのは何だったのだろうか。
先駆者、第一人者、中年の星
越は、数々の修飾とともに語られてきた。 ボブスレーから転向後、スケルトンという日本では馴染みのなかった競技で日本代表として活躍し、オリンピックに3度挑んだ。
馴染みがないゆえに、選手として練習に打ち込むばかりではなく、認知度を上げようと努力し、競技環境を整えることに奔走した日々でもあった。まさに、修飾の言葉そのままである。
エピソードは数知れない。
例えば、競技に打ち込むための活動資金の獲得だ。136社にスケルトンという競技の説明、自身の将来の設計図を記した手紙を送付したことがある。136社への送付とは、並大抵のことではない。6年間世話になった企業との契約が切れた時には、東京で記者会見を開いた。失業保険で海外遠征に臨んだことだってある。
海外遠征に出るにしても、航空券、ホテル、レンタカーの手配を自ら行なわなければならない。周囲がセッティングしてくれる環境を持つアスリートとは雲泥の違いであり、競技だけに専念するわけにはいかなかった。
しかも、すでに肉体的にはピークを過ぎてもなお、オリンピックへの挑戦を諦めず、チャレンジし続けた。 何がそのエネルギーを生み出したのか。 そう問いかけると、2つ、原動力となったものを挙げた。
“少年の頃の思い”と“大学時代の挫折”
越は、1964年、長野県木曽郡王滝村に生まれた。岐阜県にもほど近い、山深く、木々の生い茂る村である。この村に生まれ育った越は、少年の頃からこんな願望を抱いていた。
この山の向こうへ行きたい。
有名になりたい。
テレビの中のヒーローのように強くなりたい。
女の子にもてるかっこいい人間になりたい。
「その願望は、今日に至るまでの大きな原点になっていますね。その延長線上でここまで来たように思います」と言うと、越は続けた。
「小さな頃の願望が、スポーツとの関わりによってどんどんどんどん発達してきた。でも、なかなか現実には簡単に有名になれなかったり強くなれない。じゃあどうしたらいいんだと考えたときに、人のやらないことをやったら手っ取り早く有名になれるかなという思いが、ボブスレーとの出会いにつながり、スケルトンで世界一を目指してきた原動力になったような気がします」
言葉にあるように、高校時代、陸上に励んでいた越は、卒業すると日本で唯一、ボブスレー・リュージュ部のある仙台大学に入学する。むろん、ボブスレーを始めるためだ。
ここで、もうひとつの原動力となった、生涯忘れることのない思いを味わうことになった。越は、それを「挫折」だと言う。
入学後、越は「誘惑に負けて、友達と遊んでしまって」、入部がひと月遅れた。実際に入ったのは、5月の連休明けのことだった。だが、ひと月の遅れは大きかった。トレーニングについていけなかった。さらに追い討ちをかけたのが、先輩、後輩の間にある上下関係だった。
「僕は田舎育ちだから、先輩だろうと後輩だろうと、仲良し集団で育ったわけです。ところが入部したら、先輩の言うことは絶対であるとか、敬語を使わなければいけなかった。そういう世界は馴染みがなかったので、そこにもストレスを感じていくわけです」