アスリートメッセージ
アスリートメッセージ フェンシング 太田雄貴
メダル獲得は、協会にとっても
後に続く選手にとっても意味のあること
「2007年10月の世界選手権はアジア大会で勝った張に負けてベスト16。かなりヘコみましたね。負ける相手じゃなかったのにって。そこからちょっと悪い流れになったんです。その後の全日本インカレも全日本選手権も圧勝したけど、何か前ほど自信がわいて来なくて、歯車が狂っている感じがして」
オリンピックイヤーに入り、世界各国で開催するカテゴリーA大会に出場したが、1月のデンマークとパリの大会はベスト16止まり。その後のスペインとドイツの大会こそベスト8まで進出したが、じっくり調整して臨んだロシア大会はベスト32で敗れ、北京オリンピックへの自信も消え始めた。
その後、4月のアジア選手権では優勝したが、他の試合はほとんどがベスト16止まり。6月にキューバで開催されたワールドカップグランプリ大会をベスト32で敗退すると、完全に自信を失った。世界ランキングも10位に落ち、北京オリンピックでは自分より千田健太の方が結果を残すのではないかとさえ思えた。
「2007年の僕はディフェンス主体で勝っていたけど、強い選手が相手では守りきれなかったんです。だから攻撃も強化しなければと思って、『今年は勝っても負けても攻撃主体でいく』と決めていました。それなのに、負け続けているときは、自分が『結果を無視してでも攻撃主体でいく』と思っていたことも忘れて、なんで勝てないのかわからなくなっていたのです。もう完全に自分のやっているフェンシングがわからなくなっていましたね。それに加えて、大学を卒業してからの進路の問題もあったからモヤモヤしていて・・・・・・。ちょうどその頃、ナショナルチームで一緒にトレーニングをしていた福田さんに自分の不安を話したら、『お前、今年は攻撃主体でやると言ってたじゃないか』と言われたんです。そこで『アッ!』と思いましたね」
太田は小学4年の全国少年大会で敗れて以来、自分の負けた試合のビデオはほとんど見ていない。だがこの時ばかりはビデオを見直した。そして負けている試合は攻めていって得点を取られていることを確認したのだ。
「2007年は3ラウンドフルに戦って15点までいかないで勝っている試合があったけど、2008年にはそういうのが全然なかったんです。ディフェンス主体にやるというのは、実は体力が必要なんです。ジッと相手の攻撃を待つだけでも気力と体力はかなり使いますから。結局、その体力に不安があるから待ちきれなくなって攻撃にいき、そこを突かれて得点を取られていたんです。2007年から2008年にかけては、連戦が続いて基礎体力が低下していたんです」
そのため太田は6月のワールドカップグランプリ大会が終わってから3週間、剣を持たずにフィジカルトレーニングに集中した。本番まで2カ月という時期に剣を持たないのは冒険でもあったが、それをあえて実行したのだ。ナショナルトレーニングセンターの陸上競技場でひたすら走り込みをして、筋肉痛で寝返りも打てないほどになった。
7月に入ってからの合宿で久しぶりに剣を持つと、それが新鮮に感じた。そして9分間フルに戦う練習でも、体力に余裕を持てるまでになった。北京オリンピックでのメダル獲得の確率も上がったと思えるようになったのだ。
「でも本番の組み合わせを見た時は、正直、メダルは厳しいと思いましたね。2回戦で5月の高円宮ワールドカップで負けたチェ・ビョンチョル(韓国)に当たり、準々決勝では5戦5敗で世界ランキング1位のヨピッヒ(ドイツ)と当たる組み合わせでしたから。チェひとりに勝つ確率は少しあったとしても、ふたりに連勝する確率はかなり低くなると思いました」
幸いにもヨピッヒの少し剣を引いて構えるスタイルは、チェとよく似ていた。そのため太田とオレグは、チェ対策に集中したのだ。
太田が2回戦の対チェ戦を最大のヤマ場だと考えていたのには、個人的な思いの他にも日本フェンシング協会の強い期待があった。この北京オリンピックは、協会がフルーレの強化だけに絞り込み、資金をつぎ込んで500日合宿を実行するという英断の下で臨んだ大会であり、日本フェンシング界の将来をも賭けた大会だった。2日前の女子フルーレでは菅原が7位入賞を果たしていたが、もし2回戦でクライブリンク(ドイツ)と当たる千田とともに、太田がベスト16で敗退すれば、フルーレの強化を推進した協会自体の方針も問われることになりかねないからだ。
「最低でもアテネオリンピックを上回るベスト8進出は果たさなくてはいけない」
そんな思いを持って臨んだチェ戦。互いに連続得点を奪い合う接戦になりながらも、太田は粘りきった。13対12からのポイントは、一度審判が太田の得点として14対12になった。だがチェの抗議で彼の得点となって13対13に変わった。そしてその直後にも得点を取られ、逆に王手を掛けられたのだ。微妙な判定による相手のポイント。それは5月の高円宮ワールドカップの再現のようだった。その時太田は気持ちを立て直せずに敗退したのだ。
だが今回は違った。14対14の一本勝負に持ち込んだ後も、チェ対策をしっかり行ったことや基礎体力を向上させたこと等が自信となり、冷静に戦うことができたのだ。そして、ギリギリで勝利を手にした。
次の準々決勝のヨピッヒ戦も、いつもの彼ではなかった。いざ立ち会ってみると、ヤマ場であるチェ戦で勝ち、これまでやってきたことに自信を持って試合に臨めたことも作用し、彼との対戦時には必ず頭の中に浮んでくる“自分が負けるイメージ”がなかった。上手く接戦に持ち込むことができ、14対12から相手の反則で得点を上げて逃げきったのだ。
準決勝は過去1勝1敗のサンツォ(イタリア)との対戦だった。だが太田は彼と戦う前にメダル獲得を確信していた。準決勝の第1試合では、クライブリンクがシュ・シュン(中国)を15対4で破っていたからだ。シュは相性のいい選手で、例え3位決定戦になっても負ける気はしなかった。その分気持ちに余裕を持てた彼は、サンツォとの試合も楽しむ気になれた。
アテネオリンピックで銀メダルを獲得しているサンツォは32歳のベテラン選手で、経験値の高い選手だった。そんな選手を相手に、オリンピックという大舞台で勝つのは極めて難しいと思っていた。だが接戦になり13対14になってから、相手がポイントを欲しがって焦っているのがわかった。
「13対14と王手を掛けられた時、普段の僕なら攻めていたと思いますね。でもあの時はいつもは冷静なサンツォが焦っていたので、僕が前に出ていったら負けるような気がしたんです。だから14対14になってからも自陣勝負に持ち込んだんです」
その作戦がピタリと当り、最後の得点を取って2位以内を確定した。だが決勝の対クライブリンク戦では、もう体力が残っていなかった。比較的楽な戦いで勝ち上がってきた相手に対し、太田は2回戦から白熱の戦いを勝ち上がってきていたからだ。
北京オリンピック 男子フルーレ個人決勝、
得意の背中を突く攻撃をみせる太田選手
(写真提供:フォート・キシモト)
第1ラウンドこそ善戦したが、その後は簡単に得点を取られ、9対15で完敗した。しかし、ヨーロッパ伝統の競技であるフェンシングでの銀メダル獲得は、日本にとっては大きな価値を持つ偉業だった。
(写真提供:フォート・キシモト)
「僕のメダル獲得というのは協会にとっても、後に続く選手にとっても意味のあることだと思います。でもピストの上で僕が考えていたのは、一緒に全日本チームで戦い、ともに北京オリンピック出場を目指していた福田さんや市川恭也さんのために勝ちたいということでしたね。あの人たちがどれほどオリンックへ行きたかったかも知っているし。僕が負けたらこれまでのような環境がなくなってしまい、彼らと一緒にロンドンオリンピックを目指せなくなるかもしれないと思っていたんです。だからメダルが確定したときは、本当にホッとしました」
北京オリンピック後、太田はある先輩から「お前のフェンシングは、日本人選手のパクリの集大成だ」と言われたという。彼にはその言葉が嬉しかった。
「本当に北京オリンピックでは、大会前に練習相手になってくれた学生たちや先輩方みんなに1ポイントずつ取らせてもらった気がするんです。特にチェから得点したしゃがむ技は飯村先輩の得意技だし、ヨピッヒから得点した手を伸ばしたままで突く技は福田さんの得意技なんです。普段は絶対にやらないような技があそこで出たというのは、その人たちが乗り移ってたんじゃないかなって思うくらいなんです」
太田自身、4年後へ向けてのプランは微かながら見えているという。ただ、常に勝ち続けていくことはないだろうとも。今は若い選手たちも力をつけ、世界の舞台で結果を出し始めている。彼らは自分よりも、簡単に世界で勝てる方法を会得できるだろうと。
「でも、世界で戦う方法を自分の頭で考えて実践してきた“事実”があるから、彼らには絶対負けないと思えるんです。それにオリンピックでメダルを獲得したことで、自分の人生としてもそんじょそこらの人には負けないくらいの経験値を得ることができました。ただ、もう『自分だけが強くなればいい』という立場ではないですから……。北京オリンピックでフェンシングという競技を認知してもらうことができたし、銀メダリストとしての発言力もあると思うので、子供たちに与える影響力だけではなく、さまざまな人にも『今日も頑張ろう』とか『もっとチャレンジしてみよう』という元気を与えられる選手になりたいですね。それが僕を大きく成長させてくれたオリンピックへの恩返しだと思うんです」
(2009.1.29掲載)
太田選手からのビデオメッセージ!!
「フェンシングの魅力、そして4年後への決意!」
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1985年11月25日生まれ。滋賀県出身。森永製菓株式会社所属。
父親の勧めで小学3年からフェンシングを始め、小学5年6年では全国少年大会小学生の部を、中学2年3年では全国少年大会中学生の部を連覇。高校2年で出場した全日本選手権では史上最年少優勝を果たし、インターハイでも3連覇を達成した。高校3年次にはアテネオリンピックに出場、日本人最高の9位に入る。2006年アジア大会前から現在コーチを務めるマツェイチュク・オレグ氏の指導を受け、アジア大会では日本フェンシング界に28年ぶりの金メダルを、そして北京オリンピックでは銀メダルを獲得した。日本人初のメダリストとして、フェンシングの普及活動に積極的に取り組んでいる。
北京オリンピックのプロフィールページ
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