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アスリートメッセージ

アスリートメッセージ フェンシング 太田雄貴

ルール変更に対応できず、フェンシングを辞めようと・・・・・・

初めて経験したアテネオリンピックでは、初戦の2回戦でチュマセロ(メキシコ)に15対9で勝利、夢の舞台で初白星を挙げることができた。続く3回戦は、団体で銅メダルを獲得したガネーフ(ロシア)に8対15で敗戦したが、日本人史上最高の9位に入った。その成績に満足して次の北京オリンピックへ狙いを定めようとした太田に、またしても試練が訪れた。

フェンシングでは相手の有効面を剣の先で突いた時、500g以上の力が1000分の1秒間加われば得点になっていた。そのルールが1000分の14秒間必要と変更になったのだ。太田は、素早く大きな振り込みで相手の背中を剣先でかするように突いてポイントを取るのを得意にしていた。だがルール変更後は、「突いた!」と思ってもなかなか得点できなくなった。さらに前年は勝てていた相手にも、オリンピックに出場したことによりしっかり研究されて勝てなくなるという、二重の苦境に陥ったのだ。

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2007年から師弟関係にあるオレグコーチと

ちょうどその時期、2003年からナショナルチームのコーチに就任していたマツェイチュク・オレグの指導で、菅原智恵子が急激に力を伸ばし、2005年3月の中国国際大会で優勝するなど、一時は世界ランキングを4位まで上げた。

「僕も新しいルールにオレグのレッスンが合っているのは何となくわかっていたんです。でも、中学生のころからずっと指導してくれた飯村栄彦先輩とやってきたフェンシングを捨てたくなかったから、オレグのことを認めたくなかったんです。本当に“井の中の蛙”で、外国人には教わりたくないと意地を張っていたんですね。それが2006年になると、同い年の千田健太が、ワールドカップのなかでもグレードが高いグランプリ大会(エジプト)で日本人最高の3位になったんです。僕自身はグランプリ大会でベスト8にも入ってなかったのに、僕には一度も勝ったことがない健太が3位で、『なんで?』って思うわけですよ」

千田がオレグの指導を受けていたのは知っていた。だが太田は、それでも「あいつが勝ったのはたまたまだ」と無視を決め込んだ。しかし今度は4歳上の福田が世界選手権で自分もやったことがないベスト8進出を果してしまったのだ。太田は自分がもう日本フルーレの主役ではなくなっていることを見せつけられる思いがした。その時期はもう、「強くなりたい」という意欲もなくなり、大学卒業とともにフェンシングも辞めようと思っていた。

そんな太田に追い打ちをかけたのが11月末の全日本インカレだった。それまで2連覇しているタイトルを守るということだけが彼の心の支えだったが、決勝で1年生の目黒友薫に敗れてしまったのだ。

「その時はもう、フェンシングに失恋したような気持ちでしたね。だからそこで初めてオレグに頭を下げて、『アジア大会で勝たせてくれ』と申し込んだんです。それまで散々反抗的な態度をとっていた僕に、オレグは何か言うだろうと思っていたけど、彼は何も言わずに受け入れてくれたんです」

アジア大会まで、僅か10日間のレッスンだった。だがそこでは、最大の強敵である中国の張亮亮対策に徹底した。その成果が実って準決勝で張を撃破。決勝でも韓国の李天雄に圧勝して日本フェンシング界に28年ぶりの金メダルをもたらした。


2006年アジア大会で、日本フェンシング界28年ぶりの金メダルを獲得
(写真提供:アフロスポーツ)

本格的にオレグの指導を受けるようになった2007年、太田は1月にパリで開催されたワールドカップグランプリ大会で2位になった。日本フェンシング協会が行った500日合宿も彼を後押した。世界ランキングを一気に上げて5月からのオリンピックレースに突入。そして2008年3月末には世界ランキング8位以内を確定、北京オリンピックへの出場権を獲得したのだ。

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