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アスリートメッセージ

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ドーハアジア大会、チャイニーズタイペイ戦での日本代表チーム。
(写真提供:フォート・キシモト)

あえて実業団所属の道を選ばなかった理由について加藤選手は、「実業団の枠にとらわれたくなかった」「型にはめられるのが嫌いなんです。もし実業団でプレイしていたら、ここまで続いていなかったかもしれません」と話す。
加藤選手の場合、全日本合宿以外は家の近くのグランドで1人練習することもあるという。
「チームは夜、練習することが多いのですが、私は家が遠いので・・・。パスの練習など1人でやると難しいと思われるかもしれませんが、イメージしながらやっています」

今は全日本合宿の練習が忙しく、仕事をする暇もないそうだが、以前は遺跡発掘のアルバイトをしたこともあるそうだ。
「土を触ると心が落ち着くんです。また機会があったらやってみたいですね。これらの仕事で貯めたお金を今は切り崩して、やっています」と屈託のない笑顔で話す。

一方、岡村選手は地元である飯能市にこだわった。
「地元で活動したかったんです。2004年に埼玉県で国体が行われたときも埼玉県のチームで出たかったんですが、飯能には実業団チームがありませんでした。だからクラブチームで活動することにしたんです」

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2007年1月にアルゼンチンで開催された
チャンピオンズ・トロフィーのオランダ戦で
ゴールを守る岡村選手(手前黄色のユニフォーム) 
(写真提供:アフロフポーツ)

また岡村選手には地元で実現したい夢もある。
「実は高校の先生になりたくて。今は忙しくて無理ですが、いずれは地元で自分もホッケーをやりながら、体育の先生になって、子どもたちにもホッケーを教えられたらなと思っています。でもホッケー部がある高校って少ないんですよね・・・」

ホッケーの競技者は確かにソフトボールやバレーボールなどに比べると少ないかもしれない。しかもホッケーのボールスピードは想像以上の速さ。岡村選手いわく、「レッドソックスの松坂大輔投手が投げる球並み」だそう。ゆえにケガも絶えない。ゴールキーパーの岡村選手は防具をつけているため、怪我による苦労はほとんどないが、フルバックの加藤選手の場合、マウスピース以外は無防備。そのためあざは日常茶飯事だという。
「よく考えたら危険なスポーツですよね(笑)。でも気にはしていられません。私たちは体を張らなくちゃいけないですから」と加藤選手。

ところで加藤選手、岡村選手ともに30代。加藤選手は北京オリンピックを迎える頃、37歳だ。失礼ながら体力の自信について尋ねてみると、
「若い頃よりも今のほうが体は動きますね。呼吸法などさまざまなトレーニング方法を取り入れているんですよ。体力がなければ、せっかくの技術も生かせない。10代の頃は走るのは嫌いでしたが、今はホッケーのため、オリンピックのためと割り切っています。今は自分の体がどんどんいい方向に変わっていると実感しています」
と加藤選手はまったく不安のない様子で答えた。
岡村選手も、「経験は大事だと思う。北京オリンピックのときは32歳ですが、きっと自分自身やまわりのことを客観的に見られると思う。若い時よりもその年齢のほうが余裕を持てるような気がするんです」と年齢を重ねたからこそ見えるものがあると主張する。

しかし北京オリンピックの出場権を獲得したからといって安心してはいられない。最終的に代表に選ばれるのは16人。うちフィールドに立てるのは11人だ。加藤選手は、代表に選ばれるまで気は抜けないと言う。「北京オリンピックまでのどんな大会でもきっちり力を出していかないと。うかうかしてはいられません」

アテネオリンピックで日本女子チームは初出場ながら8位入賞を果たした。そして2006年9月にスペインで行われたホッケーワールドカップでは参加12カ国中5位という成績をおさめ、着実に世界トップとの差を縮めている。
現状と今後の展望について加藤選手は次のように語る。
「今は実力の格差もなく、どの国が優勝してもおかしくない。もちろん日本にもチャンスはあると思います」
アテネオリンピックから高まったホッケー人気。ますます彼女たちから目が離せない。

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加藤明美(かとう あけみ・右)

1970年12月13日生まれ、埼玉県出身。天理大学出身
H・F・C-HANNO所属

岡村育子(おかむら いくこ・左)

1976年9月17日生まれ、埼玉県出身。天理大学出身
H・F・C-HANNO所属

2006年ホッケーワールドカップ5位。第15回アジア競技大会(2006/ドーハ)準優勝により、女子ソフトボールに続き2番手で北京オリンピック出場権を獲得。

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