4オリンピックデー・フェスタの10年 ̄笑顔がある。』はどうですか?」「スポーツから生まれる笑顔。まさしく、我々が届けたいそのものだ。それでいこう!」 この頃になると、IOC(国際オリンピック委員会)は支援活動を『TSUBASAプロジェクト』と名付け、寄付金のほか、いろいろな形での支援を行ってくれていました。その一部をこのプログラムの資金として、使わせていただくことにしました。*「こんな状況だ。イベントをやってもどれだけの人が集まれるか、わからない。人数にはこだわらずどんなに遠くても被災地に寄り添う形でやっていこう」 予算を組み、プログラムを体系付け、ようやく震災復興イベントとしてできるようになった頃には、秋の気配が近づいてきていました。 かつての体育の日である10月10日をスタート日とし、声かけに応じてくれた宮城県仙台市と東松島市の2カ所に出かけて行くことにしました。 2011年10月10日(月・祝)、仙台市陸上競技場、東松島市の鷹来の森運動公園野外運動場に、オリンピアン33名と約2100人の参加者が集合。オリンピアンも竹田恆和JOC前会長、IOCからは当時副会長のサーミ 宮部の姿が、私たちがいま、できることを示していました。 これがオリンピックデー・フェスタを開催する、そもそものきっかけとなったと言えます。 JOCには、多くのオリンピアンから「自分たちにも何かできませんか?」という声が届いていました。〝やるしかない!〟 すぐに若手を中心に職員を集め、オリンピアンならではの支援のアイデア出しから始めました。 これまでJOCでは数多くのイベントを行ってきましたが、ここではこれまでと同じように行うことはできません。スポーツを行う運動場や体育館が被害を受けていたり、残っているものはほとんどが避難所や遺体安置所として使用されていたからです。 その状況下でできることは、先の見えない不安に怯える被災地のみなさんに、まずは体を動かして少しでも健康に注意してもらうこと。笑顔になってもらうこと。そこを大切に、誰でも気軽に参加し、世代を超えて遊ぶことができるプログラムを考えました。「タイトルはどうする?」「スポーツでみなさんに笑顔を取り戻してもらうということですよね」「それなら、『スポーツから生まれる、 活動を始めてしばらく経った頃だったと思います。ある光景が私の目に飛び込んできました。 子どもたちが一人の青年に群がり、時に笑顔で、笑い声を響かせながら、元気いっぱいに遊んでいる姿です。子どもたちはその青年を、「オリンピックのお兄ちゃん」と呼んでいました。医療チームの運営スタッフとして現地入りしていた、当時JOC職員として働いていた亡き宮部行範でした。 この頃、避難所ではいつまで続くかわからない避難生活に大人たちは疲れ果て、虚ろな表情を見せていました。一方、遊びたい盛りの子どもたちには、体を動かす場所すらありません。宮部はそんな子どもたちを集め、遊んでいたのです。そのときの宮部の様子は、〝楽しく子どもたちと遊んでいる〟というより、〝一生懸命遊んでいる〟ように見えました。彼は1992年アルベールビルオリンピック(スケート)の銅メダリストですが、おそらく、子どもたちは彼の実績などまるでわかっていなかったでしょう。ただオリンピックに出た選手らしい人が一緒に遊んでくれている、子どもたちにはただそれだけでよかったのだと思います。〝私たちにやれることがここにあるじゃないか!〟991212881111771010
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