オリンピックデー・フェスタの10年
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3︳オリンピックデー・フェスタの10年「たいへんなことが起きた!」 2011年(平成23年)3月11日金曜日、午後2時46分。東北地方でマグニチュード9という巨大地震が発生、40メートル近い大津波がまたたく間に沿岸部を飲み込んでいきました。想像をはるかに超える被害の大きさで、東日本では一瞬にして平穏な日常生活が止まりました。 JOC事務局は、翌年に迫ったロンドンオリンピックに向け、ちょうど準備に追われてたときでした。揺れの大きさに驚きニュースを確認すると、そこには〝ありえないような〟風景が広がっていました。もはや、オリンピックの準備どころではありません。現地では道路は寸断されライフラインはストップし、生活に必要な物資も滞る状態で、多くの人たちが命をも失っていました。 日を追うごとに、東北地方の被害の深刻さが明らかになってきました。画面から伝えられる被災地の状況を見ては〝我々は何をしたらいいのだろう〟〝何ができるのだろう〟と不安ともどかしさの中で途方にくれました。 そんなとき、JOC事務局に一本の電話がありました。「私たちの専門性を活かし、現地でお手伝いできることがあるはずです。すぐに支援に行きましょう」 電話の主は、当時JOC情報・医・科学専門部会の増島篤ドクターでした。 JOCにはオリンピックで医療サポートを行う医療チームがあります。内外科のドクター、リハビリを行うトレーナー、運営をサポートする事務局員で編成されたチームで、これまでに日本代表選手団の医療を担ってきたノウハウがあります。増島ドクターはその医療チームの一人で、この電話で「チームを組んで被災地に救援に行こう」と話がまとまりました。 ところが、未だかつてない非常時です。どこへ連絡してもなぜか受け入れを断られました。なかには、「間に合っています」という断りもありました。しかし、ニュースを見るかぎり医療が十分行き渡っているようにはとても思えません。 何か手だてはないだろうか。 頭を抱えていたところ、医療チームメンバーの赤間高雄ドクターの関係者が、岩手県大船渡市にいることがわかりました。本増寺というお寺だということでした。しかし当時、通信の状況はつながったり、つながらなかったりと不安定で、それ以上の状況がまったくがわかりません。〝情報は現地にしかない、とにかく行ってみよう〟 そう思い立ち、3月25日金曜日、私は一人、大船渡へ向けて車を走らせました。途中何度も給油に手こずり、1日近くかけて現地に到着しました。このとき目に飛び込んできた光景を私は生涯忘れることはないでしょう。山を越えると、景色が一変し、待っていたのは色のない世界でした。これまで人々の生活を彩っていたものは、見る影もなく瓦礫となってあちらこちらに散乱し、海から押し寄せた汚泥とともにあたりを埋め尽くしていました。 実際に目にした光景は、報道で見ていたものよりもはるかに壮絶でした。 目的の本増寺を見つけたのは夕方で、あたりはすでに暗くなっていました。「活動については、まず、市役所に相談に行ってみましょう」 そう言われて市役所に向かい、JOCの医療チームが救援に駆けつける用意があることを告げると、「是非、すぐに来てください」と即答されました。 この言葉に力をもらい、東京へ飛んで帰ると、増島ドクターとともに医療チームを編成。3月28日から1ヶ月にわたり、避難所の一つである市民文化会館「リアスホール」を拠点に、医療支援を行うことになりました。*663355224411

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