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フェアプレー

ベラ・チャスラフスカ
国際政治に翻弄された「東京の恋人」


東京大会(1964)で、女子体操個人総合、平均台、跳馬で金メダルに輝いたベラ・チャスラフスカ(チェコスロバキア・現チェコ)は、その端正な美貌と優雅でダイナミックな演技で日本中を魅了し、「東京の恋人」と呼ばれました。次のメキシコシティー大会(1968)でもその美しさは健在で、個人総合連覇を達成し、床、段違い平行棒、跳馬でも優勝を果たしました。彼女の運命はしかし、その後大きく変化します。

1968年夏、「プラハの春」といわれたチェコスロバキアの自由化政策を圧殺するために、ソ連軍がプラハに侵攻しました。その2ヵ月後、メキシコで開かれたオリンピックに彼女は黒いレオタードを着用していましたが、それはソ連に対する抗議の意を込めたものだったのです。

70年代に入ってチェコ政府が親ソ連路線を取るようになると、チャスラフスカは危険分子として政府にマークされるようになります。プラハの春当時に祖国の自由化を支持する「二千語宣言」に署名していたことがその理由でした。

当局に連行されて訊問を受けることもしばしばで、所属していた体操クラブからも追われてしまいます。しかし、署名の撤回を求められても、彼女は頑として拒否し続けました。本来は政治的主張の強い人ではなかったといいますが、自らの信念に正直であり、苦境にあってもその姿勢を貫き通したのです。

1989年、東欧に民主化の波が押し寄せると、無血革命として知られる「ビロード革命」により、チェコは共産党の一党独裁統治を覆して真の民主化を達成します。彼女と同様に迫害を受け続けた、劇作家でありビロード革命の中心人物であったハヴェルが大統領に選ばれると、彼に請われてチャスラフスカは大統領顧問に就任。92年にはチェコ・オリンピック委員会の会長も務めました。ようやく彼女の復権が認められたのです。

東京大会でのベラ・チャスラフスカ

東京大会でのベラ・チャスラフスカ
写真提供:フォート・キシモト