クーベルタンとオリンピズム
クーベルタンが未来に託した理想
1894年6月23日、パリでスポーツ競技者連合の会議が開催されました。その席上で、古代オリンピックにならった近代オリンピックの開催と、そのための国際オリンピック委員会(IOC)の設立が決定されたのです。
これを記念して、後にIOCはこの日を「オリンピックデー」として推奨しました。日本では1949年から様々な記念式典や行事が行われています。今年行われたオリンピックコンサートもその記念行事の一つです。
会議に集まったのは、フランス・イギリス・アメリカ・ギリシャ等20カ国からの47団体79名。政治家や軍人など、決してスポーツの専門家ではない人々がほとんどでした。
では、この人々はどのようにして集まったのでしょう。どのようにしてオリンピックが考え出され、IOCは設立されたのでしょうか。その最初の目的とはなんでしょう。6月23日のオリンピックデーの日に、オリンピックの誕生と、そこにこめられた理想像を、もう一度ふりかえってみることにしましょう。
若きクーベルタンの憂い
近代オリンピックの提唱者は、後に「近代オリンピックの父」と呼ばれるピエール・ド・クーベルタン男爵です。 彼は、1863年1月1日、貴族の家系の三男としてパリに生まれました。当時の貴族の子息の多くがそうであったように士官学校に学び、ゆくゆくは軍人か官僚、あるいは政治家になることを期待されていましたが、その道は彼を満足させるものではなく、次第に教育学に興味を示すようになります。
というのも、彼が青春時代を送っていた当時のフランスでは、普仏戦争(1870~71)の敗戦を引きずり沈滞ムードが蔓延していました。この状況を打開するには教育を改革するしかない、と考えるに至ったのです。
見聞を広げ、平和主義の国際人に変貌
そこでクーベルタンは、まずはパブリックスクール視察のために渡英します。実はこのとき熱心な愛国主義者であった彼は、大のイギリス嫌いだったそうです。
しかし彼は、イギリスの学生たちが積極的に、かつ紳士的にスポーツに取り組む姿を見て感銘を受け、たちまちイギリス贔屓になってしまいました。そして、「服従を旨として知識を詰め込むことに偏っていたフランスの教育では、このような青少年は育たない。即刻、スポーツを取り入れた教育改革を推進する必要がある」と確信したのです。
その後も彼は、精力的に各国へ足を伸ばし、見聞と人脈を広げていきます。とりわけアメリカでの体験は刺激的でした。彼には、ヨーロッパほど階級や伝統・慣習に縛られていないアメリカ社会は、古代ギリシャの都市国家の自由さに似ている、と感じられたのです。
また、当初は「自国の教育改革のために」スポーツを取り入れる必要性を感じていたクーベルタンでしたが、次第に「国際的競技会」の構想をふくらませていきます。世界各地を視察し、海外からの選手の招聘、交流試合などに携わることで、スポーツが果たしうるもう一つの役割…「国際交流」「平和」が見えてきたのではないでしょうか。
「古代オリンピック」への関心の高まり
折しも1852年にドイツの考古学者によってギリシャのオリンピアで遺跡が発掘され、以来、そこで行われていたという古代の競技会への関心が高まっていました。同じ頃、あくまで地域的で小規模なものではありましたが、ヨーロッパ各地で「オリンピック」と銘打った競技会が行われていました。
それに刺激されたクーベルタンは、スポーツ教育の理想の形として「古代オリンピックの近代における復活」を思い描くようになっていきます。
ただし彼が思い描いたのは、一国の国民だけが参加する競技会ではなく、もっと普遍的で、明確な理想を背景とした運動でした。
「近代オリンピック」誕生の瞬間
1894年6月、パリの万国博覧会に際して開かれたスポーツ競技者連合の会議で、 クーベルタンは、オリンピック復興計画を議題に挙げました。すると満場一致で可決。第1回大会は、1896年、古代オリンピックの故郷オリンピアのあるギリシャで開催することも採択されました。
また、同じ会議で、古代の伝統に従って大会は4年ごとに開催すること、大会は世界各国の大都市での持ち回り開催とすること、大会開催に関する最高の権威を持つ国際オリンピック委員会(IOC)を設立すること、など、近代オリンピックの基礎となる事柄が決定されています。今では定員115名で構成されているIOC委員ですが、そこで決定したIOCの委員は、わずか16名でした。
五輪のマークもクーベルタンが考案した
オリンピックのシンボルとして知られる五輪のマークも、後にクーベルタンが考案したものです。青、黄、黒、緑、赤の色は、地色の白を加えると、世界の国旗のほとんどを描くことができるという理由で選んだ、と、彼自身が書き残しています。また、5つの輪は5大陸の結合をあらわしていますが「どの色がどの大陸をあらわしている」というのは、実は俗説なのです。
このマークが描かれた旗は、1914年6月のIOC創設20周年記念式典で、クーベルタンによって披露され、アントワープ大会(1920)以降、開会式で使われています。近年では「オリンピック讃歌※」にのって入場するのが習わしとなっています。
※オリンピック讃歌…第1回アテネ大会(1896)開会式のために、ギリシャの詩人パラマ(Costis Palamas)が詩を書き、同じくギリシャのオペラ作曲家スピロス・サマラス(Spyridon Samaras)が作曲しましたが、その後の大会では忘れ去られていました。しかし、1958年、IOC総会が東京で開かれる間際に、東龍太郎IOC委員宛にギリシャのIOC委員から「第1回のアテネ大会で使われていたオリンピック賛歌の譜面が見つかった」と手紙が届いたのです。古い楽譜を元にNHK交響楽団が編曲、野上彰氏が訳詩を担当して62年ぶりに復活させ、集まったIOC委員の前で演奏したのです。すると委員たちはこれに感動し、以後この曲を正式なオリンピック讃歌にすることが決定されました。
「参加することに意義がある」にこめられた思い
ところで、クーベルタンの言葉として有名な「オリンピックで重要なことは、勝つことではなく参加することである」は、実は彼の創作ではありません。英米両チームのあからさまな対立により険悪なムードだったロンドン大会(1908年)中の日曜日、礼拝のためにセントポール大寺院に集まった選手を前に、主教が述べた戒めの言葉でした。
「オリンピックの理想は人間を作ること、つまり参加までの過程が大事であり、オリンピックに参加することは人と付き合うこと、すなわち世界平和の意味を含んでいる」と考えていたクーベルタンはこの言葉に感動し、英政府主催の晩餐会でこの言葉を引用して「人生にとって大切なことは成功することではなく努力すること」という趣旨のスピーチを行いました。以後、オリンピックの理想を表現する名句として知られるようになりました。
オリンピズム ~オリンピックのあるべき姿
「スポーツを通して心身を向上させ、さらには文化・国籍など様々な差異を超え、友情、連帯感、フェアプレーの精神をもって理解し合うことで、平和でよりよい世界の実現に貢献する」という、クーベルタンが提唱したオリンピックのあるべき姿(オリンピズム)は、各国が覇権を争う帝国主義の時代にあって、実に画期的なものでした。
その後、2つの世界大戦による中断や、東西冷戦によるボイコット問題など、オリンピックはいつも時代時代の社会情勢に左右され、そのたびに「あるべき姿」が問い直されてきました。
紆余曲折を経てなお、オリンピックは継続しています。それは、クーベルタンが土台を築いた「オリンピズム」という理想が、世代や国境を越えて共感を呼んでいるからにほかなりません。
わたしたちJOCの使命は、そうしたオリンピックの理念を具現化し、次の世代へ受け継いでいくことです。そのための様々な活動「オリンピック・ムーブメント」を、大会期間はもちろん、大会以外でも様々な形で積極的に推進しています。