OLYMPIAN2019
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Yukiko 19やるからには勝ちたいですし、後悔したくないですし、中途半端な思いでは臨みたくない。どう結果を出すか、今の自分に何ができるか、自分自身が自分の体を操れるように状態を把握しなきゃいけない、今一番難しいところと向き合っていると思います。オリンピックが終わった時の自分に会いに行くために、今はとにかく前に進むつもりで頑張ります。(つづく)※このインタビューの全文はJOC公式ウェブサイトでお読みいただけます。自分自身を見つめて——北京オリンピックでは2日間・3試合で413球を投げきり、「上野の413球」とも呼ばれ大きな話題となりました。上野 ピッチャーというポジションは投げるのが仕事で、自分は自分の仕事を全うしただけ。4人いるピッチャーの代表としてマウンドに立っていて、試合に出られない選手もいましたから、みんなの思いも全部背負っていましたし、自分一人で頑張っている感覚はなかったです。ただ、オリンピックにかける思いは人一倍強く持っていると思っていたので、マウンドを譲る気はなかったです。これでソフトボール人生が終わってもいいと思うくらい全てのものをかけてあそこに立っていました。 一方で、自分一人の力で勝てたわけではないので、自分ばかりが注目されているのはすごく嫌でした。全試合で完全試合を達成したわけでもない。失点してもみんなが取り返してくれて接戦の中で勝利を重ねてきた。「上野が頑張ったから勝った」と言われると、「自分だけじゃないのに」というのは当時強く感じていました。——2020年、東京オリンピックを目指す上で葛藤などはありましたか。上野 イチロー選手や吉田沙保里選手など、同じ時代に第一線で戦ってきた選手たちが引退していくことで、自分自身について考えさせられることもあります。しかも、アテネオリンピックから北京オリンピックまでの4年間は人生の中で一番苦しかった。あの思いをもう一度味わうことを考えるとなかなか腹をくくれませんでした。最大のきっかけは宇津木麗華監督が日本代表チームの監督に就任されたこと。監督に会っていなかったら、北京オリンピックの金メダルもなかったと思う。一番恩返ししたい人に恩返しできるチャンスができたと思ったのが、腹をくくったきっかけでした。 ソフトボールは一人の力で勝てるスポーツではありません。ソフトボールという団体競技だからこそ36歳になっても現役を続けられている、そんな環境に感謝しています。若い頃は勢いで体が動いていたけれども、今は加減を考えなければいけない状況。まだまだやれると思う時もあれば年かなと感じる時もある。どういう状況になっても対応できるような知識と技術を身につけて、これで勝てなかったら自分に力がなかったと思えるだけの準備をして臨みたい。 ただオリンピックに出ればいいと思っているわけではありません。つづきはこちらから▼上野 由岐子(うえの・ゆきこ)1982年7月22日生まれ。福岡県出身。小学3年でソフトボールを始める。以来、ピッチャーとして活躍し、九州女子高校(現福岡大学附属若葉高校)2年時には、世界ジュニア選手権に最年少で出場、エースとして活躍し、優勝に貢献。2004年アテネオリンピックでは銅メダルを獲得。08年北京オリンピックでは準決勝から2日間、3試合で413球を一人で投げ抜き、金メダル獲得に大きく貢献した。世界トップクラスのスピードを誇るストレートを武器に、日本代表チームをけん引する。ビックカメラ高崎所属。

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