北京2022冬季オリンピックでTEAM JAPANの総監督を務めたのが原田雅彦氏だ。自身、5度のオリンピックに出場したオリンピアン。選手・スタッフを見つめた総監督が、TEAM JAPANの健闘を振り返る。
原田 雅彦
TEAM JAPAN総監督
■ライバルも大切にすべき仲間
――北京2022冬季オリンピックには総監督という立場でご参加されました。あらためて、大会を振り返っていただき、どのようなご感想をお持ちでしょうか。
大変責任のある任務だと思っておりました。やるからには全力で成し遂げて、TEAM JAPANの選手たちが精いっぱいプレーできるように頑張ろうと考えました。
――最終的に、メダルは18個(金3個、銀6個、銅9個)となり、冬季オリンピック史上最多のメダル数ということで注目されました。選手たちの活躍を見ながら、どのような手応えを感じていらっしゃいましたか。
選手たちの活躍は本当に素晴らしかったです。メダル獲得、入賞以外の選手たちも、非常によく頑張ったと思いますね。新型コロナウイルス感染症拡大の中での開催は、大きな不安があったと思います。それは、選手だけでなく、コーチ・スタッフ、そして我々も含めてでしたが、皆さん大変な苦労を重ねて北京に乗り込みました。そして、それを乗り越えての成果ですから、今回の素晴らしい活躍には非常にうれしく思っています。
――原田総監督の中で、思い出に残ったシーンを挙げるとすると何が思い浮かびますか。
演技を魅せる採点競技ですよね。競技特性として、やはり観客と一体になってパフォーマンスを高めるという部分もあるので難しさがあったと思います。たとえば、フィギュアスケートのアイスリンクは、緊張感がビンビンに伝わってきました。見ていても、すごく奥が深い競技だなと深く記憶に残っています。
――たしかにフィギュアスケートは、ショーという側面もあります。お客さんが魅せられて拍手をして……というのがセットですものね。選手にとっては難しさを感じるところがあったかもしれないですね。
そうなんです。会場と選手が一体になるような……ね。
――原田総監督の現役時代、1994年のリレハンメルオリンピックでの最終ジャンプなど、おそらくつらい思いをされただろうというシーンを見てきました。思い通りにならず、つらい思いをした若きアスリートたちに、ぜひメッセージをいただけますか。
一人ではない、ということです。いろいろな方々が、一人一人支え合いながら競技が成り立っているのだと思います。
冬季競技は個人競技が多いですよね。良い仲間とはいえ、普段はライバルです。ライバル同士、切磋琢磨して高め合いながら技術が伸びていく。1年中、そして、それが何十年にもわたり、一緒に顔を合わせ続ける大切な仲間なんですよ。私も現役を引退しましたが、いまだに彼らと付き合いながら人生を歩んでいます。スポーツを通した出会いは永遠……。お互いに良いことも悪いこともよく知っていて、共感しながら一緒に成長していく仲間です。人生を振り返ってみて、勝ち負け以上に、こうしたことこそがスポーツやオリンピックの素晴らしさだと感じます。
――素敵な話ですね。団体になると普段ライバルだった選手がチームメートになる。戦い続ける対戦相手やライバルも、同じ競技を愛している仲間でもある。そんなライバルたちを、原田総監督はどのように大切にされてきたのでしょうか。
ライバルとして、その競技の質を高め合ってきました。ルールの中で、一緒に競い合うことで、その競技の良さ、素晴らしさを互いに高めていこうということです。 彼らの存在がなければ、競技自体も魅力的ではないものになってしまいます。まさに「競い合う仲間」ということですよね。
■新型コロナウイルス感染症との闘い
――東京2020大会と同様に、新型コロナウイルス感染症対策を講じながら実施される大会ということで、これまでのオリンピックとはまた全く違う緊張感があったと思います。TEAM JAPANとして具体的に注意し合っていたことはあったのでしょうか。
とにかく情報が欲しかったんですよね。限られた環境の中でパフォーマンスを発揮するために、競技ごとに情報を共有し合いながら万全な体制をとることを考えて頑張っていた姿が大変印象的でした。そもそも、入国できるのも分からずに不安だったほど。選手もスタッフも、普段の強化や調整とは違ったところで力を使いながらでしたが、大会を通してやり遂げてくれました。
――冬季オリンピックは、街と山で場所が離れているケースが多いですよね。今回も、市街地競技会場は北京、山系競技会場は張家口・延慶と分かれていました。大事だったとおっしゃっていた情報共有も大変だっただろうと想像するのですが、総監督という立場での新たな発見などはありましたか。
選手たちを支えるスタッフの苦労が大きいことをあらためて実感した大会だったと思います。どの種目を視察に行っても、選手のために、スタッフたちはとにかく目まぐるしく動いていました。「支えてくれている人に感謝する」という選手たちのコメントが多かったですが、その意味を本当に実感しましたね。
――特殊な状況だったからこそ、余計に選手たちもそのありがたさを感じたのかもしれないですね。
はい、まさにそういうことですよね。
――原田総監督ご自身が心掛けていたことはありましたか。
私は「いつも通り」というのがモットーなんです。TEAM JAPANの皆さんにも「いつも通り」という声掛けをしていました。ところがですね、各競技場に行くと観客席には誰もいないわけです。観客席でも、私が一人で日の丸を振っているような状況でした(笑)。ですから、なかなか「いつも通り」というわけにはいかなかったでしょうね。ただ、オリンピックに出場できるくらいの選手ですから、あとは、オリンピックという舞台で精いっぱい自分の実力を発揮するだけ。いつも通りの力を出してほしいと思っていました。
――やはり観客数が限定的であるという点は、「いつも通り」になりづらかったということですね。
そうですね。大観衆に包まれたオリンピックを期待していた選手もいたでしょうし、無観客であることを残念に思う選手も多かったでしょう。一方で、大観衆が苦手だという選手、無観客だからこそチャンスだと思った選手もいたかもしれませんよね。特殊なオリンピックでしたが、その分、今後いい思い出になるであろうオリンピックともいえますよね。
■新時代・ニューヒーローの誕生
――原田総監督の出身競技であるスキー・ジャンプでは、小林陵侑選手が大活躍でした。原田総監督はどのようにご覧になっていましたか。
小林陵侑の金メダルは、本当に良かった!(笑)
彼が金メダルをとったのはノーマルヒルという種目でした。これは昔でいう70m級。70m級金メダルといえば、1972年札幌オリンピックで笠谷幸生選手が金メダルをとって以来、50年ぶりだったんですよ。
――1998年長野オリンピックのラージヒル団体で、原田総監督をはじめとする日本チームが金メダルをとった時も「日の丸飛行隊」と呼ばれましたが、おっしゃっているのは、笠谷選手が金メダル、金野昭次選手が銀メダル、青地清二選手が銅メダルと表彰台を独占した「日の丸飛行隊」の札幌オリンピックですね。
ええ、そうです。時代は変わり、今では飛び方もなども全部変わりましたが……。素晴らしい金メダルで、私自身本当に思い出に残っています。
――それ以来のノーマルヒルでの金メダルということですね。その小林陵侑選手にもお話を伺いましたが、ひょうひょうとしたクールな雰囲気がありますよね。
そうなんですよ。力が抜けているというか、力感がない。彼については、実は技術的にも本当に力むことなく、さらっと飛んでのける姿が素晴らしいですね。
――同じ金メダリストの原田総監督から見ても頼もしいですか。
はい。50年前に金メダルを獲得した笠谷選手は「プレッシャーで眠れなかった」とか「国民の期待に応えるためにも、固くなった体をどうするか」などとおっしゃっていましたが、本当に重みが詰まった金メダルでした。ただ、それとは180度違うといってもいい、今回は今時の若者らしい金メダルだと思いました。プレッシャーがないわけではないと思うんですよ、彼も。ただ、それを感じさせない戦いぶりが彼の良さなのだと思います。私は、自分のジャンプが終わった途端に腰が抜けて立っていられませんでしたから(笑)。
――それはそれで、すてきでした。
ありがとうございます。ただ、今後もいろいろなタイプの選手が育ってくるでしょうし、それだけ指導の仕方も変わってくるのでしょうね。
――ちなみに、混合団体では、髙梨沙羅選手が1本目のジャンプの際にスーツ規定違反をとられるというトラブルが起こりました。彼女が心を痛めている姿に、見ている私たちもすごくやるせなさと切なさを感じてしまいました。元々同じ競技をされていた原田総監督の目からはどのように映っていたのでしょうか。
みんなでカバーし合う団体戦です。ミスやトラブルのようなことは起こりますし、その中身もいろいろあるんですよね。今回のようにうまくいかなかったり、失敗したりしてしまう場合もあるし、逆に、思いの外成功してうまくいってしまったということだってあります。「たられば」を言えばきりがないですが、現実として積み重なった点数が記録であり、順位になります。
私は、非常に中身の詰まった試合だったと思っていますし、ジャンプ選手としての大きな成長へとつながる結果だったと思います。彼ら選手たちの友情だったり、そこからくる感動だったり、本当にさまざまな感情が詰まった混合団体でしたよね。彼らにとっては、将来の宝物になるんじゃないかなと思います。
――本当にそう捉えてほしいですね。選手たちからすると、すぐに心を整理するのはなかなか難しいことかもしれませんが、外野で見ている私たちも原田総監督がおっしゃるようなことを期待しています。この経験を、長い人生の中で活かされたらうれしいですね。
■オリンピックの価値を意識する
――オリンピック終了後も、ロシアとウクライナの間の紛争問題が勃発するなど、世界的に見れば「スポーツをしている場合ではない」と言っても過言ではないような国際情勢になっています。オリンピックに続くパラリンピックでは、RPC(ロシアパラリンピック委員会)選手団やベラルーシ選手団の出場が認められないということになりました。スポーツ、特にオリンピック・パラリンピックが果たすべき役割が問われていますが、この点についてはどのようにお考えですか。
オリンピックが開催されたこと自体が我々のメッセージですよね。ライバル同士で切磋琢磨して、スポーツの価値を高め合う。ぜひその姿を世界中の方々に見てほしいと思います。我々は常にそうした思いを発信し、メッセージを送っています。一刻も早く、平和な日々が来るように願っています。
――私たちが直接的に解決できることは限られる中で、アスリートやスポーツ関係者による平和に対するメッセージの発信も重要なことかもしれませんね。
スポーツの世界が証明しているわけですから、必ず私たちは平和な世界をつくることができますよね。スポーツでは、まさにルールの中で競い合うことができているわけです。ぜひそれを見習ってほしいですよね。
――さまざまな競技・種目が同時に開催され、さまざまな国の選手たちが参加するのがオリンピックです。多様な価値観や感性を認め、学ぶこともオリンピックの魅力だと思いますが、新型コロナウイルス感染症拡大防止の観点から、選手村でコミュニケーションがとりづらかった点は残念でしたよね。原田総監督の現役時代のオリンピック経験も踏まえて、他競技の選手たちから受けた刺激などについて教えていただいてもよろしいでしょうか。
違う国の、違う種目の選手の中には、世界的有名人もたくさんいます。あの選手はフィギュアスケートの選手だとか、あの人はクロスカントリーで何メダルをとった人だとか、そうやって見ていたことがありました。実は、向こうもこちらのことをそういう風に見てくれていたわけですが(笑)。そういう雰囲気は、オリンピックらしさだと感じます。競技を離れて選手村にいると、試合が終わって各国の選手同士がユニフォームを交換して交流している場面も見ました。レストランにいれば、食事の時間になるとみんな集まってきます。どこの国の人であっても、同じ場所で同じものを食べるというのは平和を感じられるシーンですよね。食については、人種も何もないんだって。
今回の北京2022冬季オリンピックではソーシャルディスタンスを確保する行動が求められていたので、そういう点では残念でした。一刻も早く、この新型コロナウイルス感染症が収束することを願っています。4年後のミラノ・コルティナオリンピックでは、日本の若い選手にもそうしたコミュニケーションを体験してもらえるといいですね。
――原田総監督ご自身の、今後の抱負はありますか。
選手たちは、次のオリンピックに向けてもう始動しています。選手個々の目標が達成できるように、これからもバックアップしていきたいと思っています。そして、スポーツやオリンピックに興味を持ってくれた子どもたちがどんどんスポーツを通じて成長していくように願っています。
――お時間をいただき、ありがとうございました。
こちらこそ、ありがとうございました。
■プロフィール
原田 雅彦(はらだ・まさひこ)
1968年5月9日生まれ。北海道出身。
小学3年でジャンプを始める。92年アルベールビルオリンピックでオリンピック初出場。94年リレハンメルオリンピック男子ラージヒル団体で銀メダル、98年長野オリンピック男子ラージヒル団体金メダルに貢献、男子ラージヒル個人でも銅メダルを獲得した。2002年ソルトレークシティーオリンピック、06年トリノオリンピックと合わせて計5回のオリンピック出場を果たす。同年引退後、雪印メグミルクスキー部コーチに就任。14年より監督、21年より総監督。15年全日本スキー連盟理事就任。北京2022冬季オリンピックではTEAM JAPAN北京2022の総監督を務めた。雪印メグミルク所属。
(取材日:2022年3月9日)
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