JOCが年1回発行している広報誌「OLYMPIAN」では、東京2020オリンピックでメダルを獲得した各アスリートにインタビューを実施しました。ここでは誌面に掲載しきれなかったアスリートの思いを詳しくお伝えします。
丹羽 孝希(卓球)
男子団体 銅メダル
■3位決定戦は初めての経験
――2016年のリオデジャネイロオリンピック団体の銀、今回の銅と2大会連続のメダル獲得となりました。率直なお気持ちをお聞かせください。
リオデジャネイロオリンピックでは初めてメダルをとることができました。それはすごくうれしかったのですが、東京2020オリンピックも出場することになり、周りに再びメダルを期待されていると考えたら、すごくプレッシャーに感じました。リオの銀メダルより一つ下がって銅メダルですが、地元開催でメダルがとれてリオの時よりもうれしいです。
――今回は3度目のオリンピックという形になります。2012年ロンドンオリンピック、16年リオデジャネイロオリンピック、今回の東京2020オリンピックとどういう違いがありましたか。
ロンドンオリンピックは高校3年で初出場ということもあり、出られるだけでうれしかったです。開会式も出ましたし、オリンピックを楽しんだという大会でした。リオでは一度ロンドンを経験しているので、本気でメダルを狙いに行こうと思っていました。開会式も出ませんでしたし、競技に集中しようと思って挑みました。シングルスではベスト8、団体では銀メダルと良い成績が残せてすごく自信になりましたね。今回の東京2020オリンピックは、終わってみれば「楽しかったな」と思えますが、大会期間中は楽しいという感覚は一切なかったですね。リオからは5年経ってしまいましたので、昨日まで行われていたこの大会の方がやはりすごく強く印象に残っています。確かにリオの方が結果は良かったんですけど、今回の方が断然うれしい気持ちが強いです。
――3位決定戦は、かなりプレッシャーがあったとお話されていました。どのようなプレッシャーを感じていたのでしょうか。
3位決定戦は初めての経験で、勝てばメダル、負けたらなしということでしたから、すごくプレッシャーがありました。韓国はこれまでも勝ったり負けたりの相手でしたし、ダブルスも不利ですごく不安に感じていたのですが、そのなかでいいプレーをして勝つことができてすごくほっとしています。
――今回のダブルスでは水谷隼選手とサウスポー同士のペアを組むことが多くなりました。最初のオーストラリア戦ではぶつかることも何度か見られました。その後もドイツ戦、韓国戦と3試合で水谷選手とのダブルスを組みましたね。どのように対策をとってこられたのでしょうか。
特別な対策は立てていません。試合が進んでラウンドが上がって重要度が増すことによってお互い集中力がより高まり、動きが速くなることで、ぶつかるのを回避できたと思います。張本(智和)選手が絶対的なエースで、2点シングルを使うということで、ダブルスは僕らで組まざるを得ません。今まで左・左という前例がなかっただけで、僕としてはそこを覆したかったんですよね。僕らはそれぞれ個人の力もありますので、それを最大限活かす戦い方ができたと思っています。
――スウェーデン戦では張本選手とのペアになりました。この時は何か違和感がありましたか。
張本選手は右利きで動きが全然違うため、少し戸惑いがありましたが、試合前日に1時間ほど練習して、そこでしっかりと調整ができたと思います。
――シングルス、団体戦含めて、丹羽選手のなかで最も印象に残っているのはどのゲームですか。
3位決定戦の韓国戦のダブルスの最後の4ゲーム目のプレーですね。本当に調子が良かったです。
――ドイツ戦はフルセットにもつれ込むギリギリの戦いで、最後はエッジボールを自ら認める形で敗れました。丹羽選手は大きな声を出さないとか他の卓球選手と比べて冷静と言われることが多いと思うのですが、普段どのようなことを心掛けて卓球をされていますか。
声を出す選手、出さない選手がいますけど、それは自分の性格ですし、人それぞれという考え方を僕は持っています。試合中、僕は他の選手より声を出さない分、冷静に戦うことができていると思いますし、試合の戦術面も頭のなかで考えています。
■オリンピックは目指すべき価値が必ずある
――団体戦の表彰台では、水谷選手からメダルをかけられました。その時はどういうお気持ちでしたか。
韓国戦で勝った時ももちろんうれしかったですが、実際にメダルを首にかけた時が一番うれしかったですね。それはすごく今でも印象に残っています。
――水谷選手の眼鏡を拭くシーンも取り上げられていましたが、丹羽選手は水谷選手に対してどのような気持ちで接していましたか。
僕は14歳から日本代表でプレーしてきて13年くらいになります。その時からもちろん水谷選手はいらして、ずっと日本代表を引っ張ってもらってきたので、すごく感謝の気持ちがあります。そのなかで最後の大会と言われていた東京2020オリンピックで一緒に団体でプレーできて、さらにダブルスも初めて組んで、そして勝つことができて本当にすごくうれしく思っています。
――お子様が6月23日に産まれたばかりと伺っています。喜びを感じるなかでの大会になったと思うのですが、ご家族の応援はありましたか。
6月23日に娘が産まれて、すぐ合宿だったので会えずに寂しい思いをしました。その分結果を残そうと思っていたので、メダルがとれたことは本当にうれしいです。今日、この後会うことができますが、それをすごく楽しみに頑張ってきました。家族からも試合前にはLINEで「頑張れ」とメッセージをもらっていました。
――7月上旬にはコロナワクチンによる副反応の影響もあって、強化試合に出られないこともありました。ご自身はその状況をどのように受け止めていらっしゃいましたか。
1回目のワクチン接種の際は熱が出なかったんです。2回目は接種を受けたその日に39度4分まで熱が出て、体が重くてこれは安静にしなければいけないと思いました。結果的に1週間ほど安静にしていました。そのため、強化試合は出られなかったのですが、大会までは3週間ほどありましたし、それほど焦ることもなく調整はできました。
――丹羽選手はこれで2大会連続のメダリストということになりました。これから卓球というスポーツを伝えていくオリンピックメダリストとしてどのように活動していきたいですか。
オリンピックが終わって少し休みたい気持ちもありますが、9月にはTリーグが開幕します。日本にもようやくプロリーグができたので、僕もそこでプレーして、国内でたくさんの人に卓球を見てもらいたいと思っています。
――これからオリンピックを目指す未来のオリンピアンたちに一言お願いします。
オリンピックは4年に一度で、もちろん注目度も高いですし、出るだけですごく意味のある大会です。そこでメダルをとると、もっともっと意味のある大会になります。目指すべき価値が必ずある大会だと思うので、スポーツをやっている子どもたちには、ぜひその舞台を目指して頑張ってもらいたいですね。
――3年後のパリオリンピックについてはどのように考えていますか。
正直なところ、僕はまだ考えてないんですよね。今、27歳ですから、3年後は30歳です。日本にも強い若手選手がたくさんいるので、僕の場合はまずは一日一日、一年一年頑張っていく感じですね。
――頑張ってください。改めまして、2大会連続のメダル獲得おめでとうございます。
ありがとうございました。
(取材日:2021年8月7日)
■プロフィール
丹羽 孝希(にわ・こうき)
1994年10月10日生まれ。北海道出身。父の影響で7歳から卓球を始める。11歳でU-18日本代表に選出。2009年には世界選手権の個人戦に14歳6カ月の史上最年少で出場する。11年には世界ジュニア選手権の男子シングルスで優勝。翌年、高校3年でロンドンオリンピックの団体戦に初出場する。13年、全日本選手権の男子シングルスで初優勝、男子ダブルスでは2年ぶりの優勝を果たす。2度目のオリンピック出場となった16年リオデジャネイロ大会は、シングルスでベスト8、団体戦では銀メダル獲得に貢献。21年、東京2020オリンピックでは、団体戦で銅メダルを獲得した。(株)スヴェンソンホールディングス所属。
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