JOCが年1回発行している広報誌「OLYMPIAN」では、東京2020オリンピックでメダルを獲得した各アスリートにインタビューを実施しました。ここでは誌面に掲載しきれなかったアスリートの思いを詳しくお伝えします。
池田 向希(陸上競技)
男子20㎞競歩 銀メダル
山西 利和(陸上競技)
男子20㎞競歩 銅メダル
■祝福の言葉で湧くメダルの実感
――メダル獲得、おめでとうございます。
池田 ありがとうございます。
山西 ありがとうございます。
――山西選手はもっといい色のメダルを目指していたということもあって、喜びきれていないのではないかと表情を見ていて感じるのですが、率直にどのようなお気持ちでしょうか。
山西 この3番という順位にもちろん満足しているわけではないのですが、これまでやってきたことの結果だと思って、受け止めて、受け入れていきたいと思います。
――オリンピックのメダリストということで周囲の反響はこれまでと違いますか。
山西 そうですね。2年前の世界選手権(金メダルを獲得)の時と同様、今回も結構さまざまな方から連絡をいただいていますね。ただ、そうは言っても数は知れているので、頑張って返信していきます(笑)。
――池田選手は、オリンピックメダリストになってみて、周囲の状況も含めてどのようにお感じになっていますか。
池田 はい、まずはメダルをとることを目標に東京2020オリンピックに向けて取り組んできたので、それをこうして一つの形として達成することができたのはうれしく思います。また、周りの方々も本当に喜んでくださって、祝福の言葉をいただけることでより実感が湧いているところです。
――初のオリンピックでしたが、これまで出場した世界選手権などの国際大会と比較して、何か違うと感じたところはありますか。
池田 そんなに感じていなかったんです。とくに私たちの競技が行われた札幌会場は選手村も含めて非常にコンパクトでしたので、いつも出ているレースに出るような気持ちで参加できました。東京に移動してきてメダルセレモニーがあって、選手村に入ってから、「あ、オリンピックに来た」と実感しているところです(笑)。
――たしかに、ご褒美感がありますよね(笑)。山西選手はいかがですか。
山西 まさかオリンピックに自分が出ることになるとは幼い頃には思ってもいなかったですが、小さい頃から見ることは当たり前ですし本当に好きでした。オリンピックに出てメダルをとることができましたが、振り返ると、人生には何が起こるか分からないと感じました。ただ、オリンピックであることを意識し過ぎてしまうと普段の力が出せないと思ったので、普段通りのことをやろうとレース前は心掛けていました。
――お二人は最初のオリンピックの印象や、その時に出ていた選手のことを覚えていらっしゃいますか。
山西 僕は、2004年のアテネオリンピックですね。オリンピックのビジュアルイメージとして、体操競技や競泳の北島康介選手などが思い浮かびます。
池田 2008年の北京オリンピックですね。僕もやはり、北島康介選手が頭に浮かびました(笑)。
――池田選手は暑さ対策を万全にするためにいろいろ工夫されていたと聞きました。山西選手がパッとペースを上げた時に「よし、ついて行こう」と思ったとおっしゃっていましたが、そのコメントからは冷静さを感じました。これまでの負けが活かされたというようなお話をされていたと思うのですが、具体的にどのように活かされたのか教えていただけますか。
池田 負けることで、反省して、次に活かそうというのが積み重なった銀メダルだと思っています。2019年のドーハでの世界選手権だったり、日本選手権だったり、山西選手は毎回レースを変えてくるのですが、常にやられっぱなしで本当に嫌な選手なんです(笑)。そうした負けを通して、いろいろなレースを経験させてもらったからこそ、今回は対応できたのだと思います。ただ今回も山西選手がレースを作っていたように、まだまだ自分は劣っている部分が多いですが、少しは近づけたかなと思います。
――山西選手は世界選手権で勝つことで追われる立場になりました。山西選手を意識しながら練習する選手が世界中に増えたと思います。そういう立場になってどう跳ね返そうとしていたのでしょうか。また周りの選手たちからの視線などに変化は感じていたのでしょうか。
山西 2019年世界選手権で勝ってから、コロナ禍もあって国際大会は開かれませんでした。マークされていることは分かっているし、何となく想像はできているけれども、実際マークされた時にどういうレースの展開になっていくのか、マークされることがそもそもどれくらいやりづらいのかということがあまり分かっていなかったのだと思います。勝負の世界ですし、オリンピックだからこそシビアにマークされるだろうとは思っていましたが、経験も想定も甘かったのだと感じます。今回の結果を活かして、次につなげられればいいですね。今度は全てのマークを弾き返せる強さを身につけて、再びオリンピックの舞台に立ちたいと思います。
■スポーツはあらゆる分野に共通する
――池田選手の大学時代は、最初マネージャーから入られたとか。
池田 はい、東洋大学時代ですね。
――東洋大学陸上競技部(長距離部門)の酒井俊幸監督の奥様(酒井瑞穂コーチ)から競歩を教わっていたと伺いました。どのようなご縁だったのでしょうか。
池田 高校時代は、東洋大学に入部できるような競技実績はなかったのですが、マネージャー兼務という形で入部させていただき、裏方の仕事をしながら競技の練習に励んできました。酒井コーチとは大学2年から本格的に指導してもらうことになり、そこからどんどん競技の技術的な部分が上がったり、精神的な部分も強化することができたりして、競技成績向上につながってきたと思います。
――「指導者に恵まれた」とおっしゃっていました。
池田 私を指導してくださった方々は、陸上を本当に好きにさせてくれたこともそうですし、技術的な部分、競歩をもっともっと磨かせていただいたっていうのもそうですし、所属が変わっても変わらず熱心に指導していただいたという部分も大きいなと思います。
――山西選手にお伺いしたいのですが、必ず京都大学出身ということがついて回ると思います。それはもちろん強みだと私たちは思っているんですけど、煩わしいと思うこともあるのでしょうか。また、学業も一つのチャレンジだと思いますが、その学びが競技に活きている部分はあるか、教えてください。
山西 まず一つ目の質問ですけど、競技の世界において出身大学は関係ないですよね。結果が全ての世界ですし、僕のバックボーンが結果に影響するわけではないですし。メディアの影響もあると思いますが、そのイメージが先行して僕という選手の評価が決まってくるのは順番が逆と感じます。実力の評価が先になされて、実は学歴はこうなんですよ、というくらいが正当なのではないかと。ただ、それは学歴云々が先にくるくらいの実力しかなかったということですよね(笑)。今は少しずつ結果が出てきているので、そのように言っていますが、実力のない当時は大学名が先に取り上げられるギャップに悔しさを感じていました。もっとも、大学で過ごした4年間が私の血肉となっていますので、教育機関は関係ないと表現はしつつも、自分の過去を否定するわけではないです。
二つ目の質問に関しては、勉強やテストのスコアが高いことが大事だとは全く思わないのですが、目標を立てて、自分に足りないものを見つけて、何が分かっているのか、何が理解できていないのかを見極めて、それを一つずつ学びながら自分のものにしていくという過程は、スポーツもそうですし、あらゆる分野に通じることだと思います。そのような取り組みが、結果として、勉強のスコアや、競技結果のようにつながりますしね。コツコツと真面目に積み重ねていくことが、何より重要なことなのではないでしょうか。
――すごく参考になります。池田選手は、はとこにタレントのみちょぱこと池田美優さんがいらっしゃると話題になりました。競歩界のことを考えれば、そうやって注目してもらえることもすごく良いことだと思います。ご自身はどのように受け止めてらっしゃいますか。
池田 山西さんの京都大学同様、競技者なので、自分を取り上げていただく上で、順序は正直なところちょっと気になります(笑)。ただ、メディアにたくさん出演される芸能人の方が、陸上競技のなかでもマイナーな競歩という競技を盛り上げてくださっていると考えると、子どもたちが興味を持ってくれるきっかけにつながってくれればうれしいです。
――お二人にお伺いしたいのですが、新型コロナウイルス感染症拡大の影響で1年延期になったことに関しては、どんな影響がありましたか。
山西 強化の方針は地力を上げていくということで、そこに関してはあまり大きな影響は感じなかったですね。実戦経験は少なくなっていたとは思いますけど、特別に制限を受けたというほどでもなかったですしね。その意味では、地元・愛知県東海市のサポートなどが本当にありがたかったです。
池田 本来、東洋大学4年となり、一つの集大成という形でオリンピックを迎える予定でしたが、延期になってしまいました。同僚である川野将虎選手(東京2020大会の50km競歩で6位入賞)とも、大学4年の時に「オリンピックに二人で出たい、恩返しをしよう」とずっと言っていたので、そこは残念な気持ちもありました。ただ、逆に1年間準備する期間が延びたとプラスに捉えることもできました。まだまだ世界のトップには差があったので、それに追いつくためのスタミナ、スピード、暑熱対策を含めていろいろ磨く準備期間にできました。ある意味その1年延期が良い方向に転がったと思います。
■好影響だったコースの札幌変更
――コースが札幌になりました。本来であれば、東京の街を歩くというのも、東京2020オリンピックの醍醐味だったと思います。札幌だったから涼しかったかといえば暑そうに見えましたし、選手の方々はどのように感じていたのでしょうか。
山西 結果から言うと、東京に移動してきて最初に思ったのが「蒸し暑さが全然違う」ということです。東京では、皇居外苑の辺りがコースになっていましたが、基本的にずっと日陰のないコース設定でした。それに対して札幌は日陰の多いコースでしたので、おそらく会場でゴールタイム2、3分は違ったと思いますし、場合によってはもっと違った可能性もありますね。コンディションを考えると、環境としては札幌になったことで歩き切れた選手の数は確実に増えたでしょうし、選手の健康面のところでのリスクは明らかに軽減されたと思います。
池田 東京2020オリンピックなので、コースが東京ではないことを周りの方々も最初の頃は言っていましたが、そこが日本の臨機応変なところですよね。ドーハ世界選手権では途中棄権する選手も多く、暑いことが問題視されていました。日本のオリンピック関係者、札幌の運営関係者の方々が臨機応変に判断してくださり、柔軟に対応してくださったことは大きかったと思います。
――そう考えると、東京でやりたかった面はあるけれど、選手のコンディションやフィジカルの問題を考えると、結局最終的には札幌で良かったということなんですね。お二人は今回の結果を受けて、今後どんなふうに進んでいきたいと思いますか。
池田 今回はまだまだ挑戦者という形で出場させていただいたオリンピックでした。山西選手のように世界チャンピオンというプレッシャーもなかったですし、追われる立場でもなく、マークされる立場でもなかった。そういう立場になっても、山西選手のようにメダルを獲得できる、そういう選手に自分も将来なりたいと思いました。
山西 個人としてもそうですが、チームジャパンとして、東京オリンピックで金メダルをとることが一つの使命だったと思っています。それが達成できなかったっていうことに関しては少し残念であり、やり残したと思っているので、次のオリンピックを見据えて個人としてもそうですし、チームジャパンとしてやり残したミッションをやり切りたいと思っています。
――オリンピック開催に関して賛否両論がありました。スポーツの価値を言語化してより多くの人たちにスポーツの素晴らしさを説いたり、分かち合ったりすることが必要かもしれませんね。とくに、試合後には、競技を通じてお互いをたたえ合う。心の底で理解し合える仲間ができていくみたいなところがスポーツの良さだと思いますし、世界中のいろいろな競技の垣根を越えて実現できるのがオリンピックの魅力の一つです。メダルだけでないところに注目することで、スポーツの良さにあらためて気づけたりするのではないかと思います。
山西 レースを通じて、金メダルをとったイタリアのマッシモ・スタノ選手との交流は深まったような気がしますよ(笑)。見方によっては国別対抗でナショナリズムを感じる大会ですが、そういうものを超えたところにあるスポーツの良さもあると、今回のオリンピックでは感じました。
池田 スポーツの良さは、競歩に限らず、同じルールのもとで全力を出し切り、終わった後はお互いをたたえ合う、そういうスポーツマンシップのようなものが発揮できるからスポーツというものに価値があるのかなということは、あらためて競技をしていて感じることができたと思います。
――素敵な話をありがとうございました。
山西 ありがとうございました。
池田 ありがとうございました。
(取材日:2021年8月7日)
■プロフィール
池田向希(いけだ・こうき)
1998年5月3日生まれ。静岡県出身。マネージャー兼務で入部した東洋大学の陸上部で、競歩の専門的な指導を受ける。2018年世界チーム選手権の個人で優勝。19年の世界選手権では6位入賞した。20年の全日本競歩能美大会で優勝。21年東京2020オリンピック陸上競技男子20㎞競歩で銀メダルを獲得。旭化成(株)所属。
山西利和(やまにし・としかず)
1996年2月15日生まれ。京都府出身。高校時代にトラックから競歩へと転向すると、競歩の才能を開花させて世界ユース選手権で金メダルを獲得。高校卒業後に京都大学に進学し、4年時にはユニバーシアードで優勝。翌年のアジア大会では2位。19年世界選手権では男子20km競歩で日本人初の金メダルを獲得。20、21年と日本選手権で2連覇。21年東京2020オリンピック陸上競技男子20㎞競歩で銅メダルを獲得。愛知製鋼(株)所属。
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