日本オリンピック委員会(JOC)は、東京都、一般財団法人東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会と共同で、「1964東京オリンピック・パラリンピック50周年記念ウィーク」を2014年10月6日(月)から12日(日)まで開催しました。
7日(火)〜9日(木)は「アスリートトークショー」。荻原次晴さん、宮下純一さんを司会に、“スポーツの力”はどのように育まれてきたのか、この50年の歩みを年代別に分け、歴代オリンピアンが日替わりで登場するトークショーが行われました。
イベント初日のゲストは君原健二さん(陸上競技/1968年メキシコシティーオリンピック男子マラソン銀メダル)と早田卓次さん(体操/1964年東京オリンピック男子団体総合、つり輪金メダル)。「日本スポーツ元年―1964年のスポーツと世の中」というテーマのもと東京オリンピックに出場した当時のエピソードを披露し、会場を沸かせていました。
<トークショー要旨>
■感動の思い出 緊張の開会式
荻原さん お二人に共通するのは、いまから50年前の1964年の東京オリンピックに出場されたこと。当時はどんな開会式だったか覚えていますか?
君原さん 私は東京オリンピックに参加できたことが、競技生活の最大の誇りなんです。そして一番感動したのは開会式の入場行進。胸をふるわせて本当に感動しながら入場行進しました。ただ一つ不安があったのは、入場行進の練習でなかなか人と手足がそろわなかったこと。最近、日本選手団が入場行進をしている写真を見たら、やはり私だけ1歩遅れていました。リズム感が弱かったんですね。
宮下さん それだけ緊張感があったんですね。
君原さん もう一つ思い出があります。男子マラソンは最終日に予定されていたんですが、競技が終わった選手が増えてくると選手村がざわつき始めまして、男子マラソン選手3人は、選手村から約2時間離れた逗子(神奈川県)に移動してコンディション調整をしていたんです。しかし私はオリンピックが見たくてたまらなくて、往復4時間をかけて、2日間だけ東京にオリンピックを見に行ったんです。
荻原さん それだったら選手村にいれば良かったですね(笑)。
君原さん 逗子での練習はコンディション調整なので、1時間程度で終わってしまう。暇でしょうがない。私は4時間かけて試合を見に行ってもコンディションには支障がないという甘い判断を持っていました。すると選手村に戻っていいということだったので、私と寺沢徹さんは選手村に戻りました。でも、(銅メダルを獲得した)円谷幸吉さんだけは最後までそこで静かにコンディション調整をしたんです。
荻原さん それがメダルにつながったんですね。
君原さん そのへんに差があったように思います。
荻原さん 早田さんは開会式の思い出はありますか?
早田さん 10月10日は私の誕生日なんです。そういうこともあって、うれしくて。10月10日はいまでもよく覚えていますが、朝、選手村で行進の練習。それから(開会式会場近くの)神宮で待機。日本選手団の入場は一番最後ですから、(入場するまで)退屈で退屈で。拘束時間が長いんですよ。
(待っている間は)国立競技場の内部は見えないのでまったく想像もつきませんでしたが、日本選手団入場の合図と同時にスタンドからすごいどよめきが起こりました。まだ観衆が見えていないのに緊張し始めてしまって、数秒の間ですがどうやって歩いたか。もし体操競技でこの緊張が出てきたら大変なことになると思いました。開会式が私の競技の結果を良くした。その経験が生かされました。
荻原さん そこで緊張したことで、本番では緊張しなかったと?
早田さん しなかったですね。もちろん人に負けないくらい練習はしていましたので、体操の器具にぶら下がればそこは自信がありました。ただ「オリンピックには魔物がいる」といいますから。競技が始まる前に、そこで経験ができたことが大きかったですね。
■トレーニングは仕事の後 50年前の練習環境
宮下さん ここからは競技のことも伺っていきたいと思います。東京オリンピック開催から50年が経ちました。やはり時代も違えば練習環境やトレーニングの内容も違うと思いますが、当時はどんな練習をしていたんですか?
君原さん 当時はアマチュアスポーツ精神を守らないといけないというのがあって、アマチュアとはフルタイムで仕事をしたあとに練習をするということで、合宿も基本的にしてはいけませんでした。
荻原さん 合宿禁止ですか!
宮下さん じゃあ、本当に練習する時間が限られていたんですね。早田さんはいかがですか?
早田さん 私は君原さんと同じ学年です。勤め始めて2年目は(助手として)大学にいましたので授業もありました。それが終わってから練習していましたね。合宿だとかはあまり組まれていなかったし。余暇を利用して練習していました。
宮下さん 日本を背負っていくのに余暇で。だから休みも練習をしていたんですね。
早田さん 例えば身内の結婚式があっても、まず練習が大事。勤めはあるんですけど、個人的な時間は練習を最優先に考えて、そのあといろんなことに時間を使うという形でした。
荻原さん われわれの時代と当時のまさに東京オリンピックに出場して活躍が期待される日本人選手たちは背負っているものが全然違うんですね。
宮下さん 重圧というか日の丸の重みが違ったんでしょうね。君原さんはどうだったんですか?
君原さん とにかく私は夢中で、一生懸命に頑張らないといけないということばかりでした。(オリンピック本番では)切れ間が無いほどに沿道からの声援を受けて、ありがたいと思いながら走りましたね。
荻原さん そのときアベベさん(※)は靴を履いていたんですか?
※エチオピア代表のアベベ・ビキラ選手。オリンピックの男子マラソンで、1960年ローマ、1964年東京を制した。日本では「裸足のアベベ」として知られる。
君原さん 履いていました。アベベさんは、ローマオリンピックでは履いていませんでしたけど、東京ではシューズを履いていました。
■スポーツから学んだもの
宮下さん 自国開催ということで応援は力強いですが重圧もあったと思います。印象的な応援とか、応援にまつわるエピソードをお聞かせいただければと思います。
君原さん 知らない方から、お守りや千羽鶴などの必勝祈願をもらいました。私に対する期待を込めたお守りだったと思います。
早田さん 地元でしたので、新聞にしても目で耳でいろんな面で確認ができるので、それを気にしだしたら大変でしたね。でも郷里の後輩たちが送ってくれた寄せ書きは励みになりました。表彰台の一番上に私が立っている絵が描かれていたり。日本選手の中にも大先輩がごろごろいるなかで「そんなことあり得ない」と思いながらも、「ようし頑張るぞ」という気持ちになりました。
荻原さん 早田さん、いま金メダルはどこにしまっているんですか?
早田さん (個人種目の)金メダルはたんすの奥に。ほとんど知られていないと思うのですが、団体種目でも現在は全員にメダルがもらえますが、東京のときは違いました。団体では1つしかもらえなかったので、団体の金メダルは協会に保管しております。
宮下さん 50年経つと練習環境も違ってびっくりでした。当時の話を色々と伺ってきましたが、ここでお二人に質問です。お二人にとってのスポーツとは何でしょうか?
君原さん 私は小学校から勉強もスポーツもできなく本当に劣等生でした。それがこうしてスポーツに出会って、オリンピック選手まで成長させてくれた。本当に私の人間としての「道場」だったと思います。
早田さん 私は「和」です。私は中学くらいまで人と全く話ができないいわば赤面症でした。しかし、東京に来て大学に入りいろいろと揉まれ、スポーツとは対話が大切だと、チームワークと意思疎通が大切だと教えられました。東京オリンピックの直前合宿では、ベテランの方などからヨーロッパに行ったときの話や、体調管理の話を聞きました。そのときに、こんな楽しい時間が過ごせるのは最高だなと思いました。先輩のアドバイスで筋肉痛を減らすこともできましたし。最近はJOCもチームジャパンという、皆で協力することを訴えています。そうしたこともあってこの「和」というものを選びました。
■2020年へ向けたエール
荻原さん 体操もいま若い選手が活躍していますけど、大先輩から見てどうですか
早田さん 白井(健三)君なんてもう体の感覚がどうなっているのか分かりません。東京の頃は2回ひねりをやった人はいますが、(ゆかの)金メダルのイタリア人選手でも1回ひねり。それが白井君は4回。昔はウルトラCとか言われていたのですが、それよりも何度の高いGとかEの時代になっています。
荻原さん 君原さん、最近の男子マラソンは元気がありますか?
君原さん いまは外国の、特にケニア勢が強くなりすぎて日本は追いつかなくなる状態にあります。でも、中本健太郎さん(2012年ロンドンオリンピック6位)が入賞したように、入賞は十分可能だと思います。
宮下さん 最後に、お二人にもう一言いただきたいです。50周年ですので、当時の思いを加えながら2020年の東京オリンピック・パラリンピックに向けてメッセージをお願いします。
君原さん 50年前の東京オリンピックは世界一素晴らしい大会だったと思います。2020年の東京オリンピック・パラリンピックはさらに進化した素晴らしいものになっていると思います。期待しています。
早田さん 3つに分けて。まずは競技面では、(日本選手の)能力は持っているはずなので根性面をもっと。あるいは日本民族が得意とする勤勉さや努力などを、もっとすべきかなと思います。2つ目は環境ですね。50年前は(オリンピックを契機に)新幹線だとかテレビだとかいろいろなものができて、世界に(日本を)発信することができた。今度は世界を先導するようなことができると良いですね。選手は選手で、企業は企業で頑張ると。3つ目は日本全国のスポーツに対する理解です。スポーツ文化を、もっと大事にしてほしいと思います。
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