何度も確認したスマートフォンに表示された『当選』の赤い文字。
そう、ついに家族4人で東京オリンピックの柔道決勝を見に行けるようになったのだ。
私以上に喜んだのが当時小学生4年生の弟で、大ファンである阿部一二三選手の試合を見れることを心の底から喜んでおり、『オリンピックまで残り○日』のカレンダーを作成したり、同じ柔道クラブの友達に自慢したり、お年玉での貯金でオリンピック日本代表のTシャツを購入したりとその日が来るのを今か、今かと楽しみにしている様子を家族全員で温かく見守っていました。
しかし、そこに訪れた突然のコロナウィルスの蔓延により、1年の延期。
毎日刻々と変化するコロナウィルスの状況とオリンピック開催の是非のニュースを観ながら弟は『絶対オリンピックは大丈夫だよね』と何度も家族の私たちに確認してくる日々が続きましたが、無情にも東京オリンピックの無観客開催が決定しました。
私も観戦を楽しみにしていたので、ショックだったのですが、私以上に楽しみにしており、事あるごとに『オリンピックに行くために頑張る』と柔道クラブの稽古等今まで以上に頑張ってきた弟が受けたショックは計り知れないものかと思いました。
無観客開催の決定の報を父から聞いた時、弟は一瞬信じられないような顔をしたのですが、『こんな状況だから、しょうがないよね』と笑顔で答えており、私も安堵しました。
しかし、やはり弟が受けたショックは大きったのか、その日以降オリンピック関連のニュースは見なくなり、毎日のように話していたオリンピックの話題、阿部一二三選手の話題もほとんど口にしなくなりました。
そして、迎えた東京オリンピックの柔道男子66キログラム級の試合の日。
本来であれば家族4人で日本武道館で観戦できるはずだったのですが、父の提案で朝から家族全員で購入した日本代表Tシャツを着用して、阿部一二三選手を応援しました。
前日には妹の詩さんも金メダルを獲得されており、大変なプレッシャーだったと思うのですがそんな中見事に金メダルを獲得されました。
弟ははちきれんばかりの笑顔で何度もガッツポーズとバンザイを繰り返していました。
そして、弟は阿部一二三選手の金メダルのインタビューを見た後に私たち家族に『僕も必ず将来阿部一二三選手みたいになって、オリンピックで金メダルを取る!家族を招待する!』と力強く約束してくれました。
東京オリンピック開催から一年が経過しましたが、弟の目標は当然変わっておらず、柔道の稽古をほぼ休み無く毎日頑張っております。
無観客開催でしたが、私自身もオリンピックの持つ力、スポーツの持つ力、社会的意義について考えるきっかけとなる大会となりました。
またいつか日本でオリンピックパラリンピックを開催して頂けることを心より願っております。
いつもやってくる夏。自分が1番好きな季節。
それでも2021(2020)の夏はいつもとは違う。
東京でオリンピックが開催されると決まってから、あっという間にこの夏が来た。
物心ついた時からテレビの中の世界だった、あの輝かしい祭典がこの東京にやってきたのだと、興奮と期待の気持ちでいっぱいだった。
しかし、コロナのせいで無観客。制限がいくつもあり、やるせない気持ちになった。そんな複雑な気持ちの中始まったオリンピック。
開会式をテレビの前で見ると、前に感じたあの感動が一気に想い呼び起こされた。
選手たちの活躍が次々に報道され、その年に控えていた教員採用試験にも熱が入った。
期待に応える選手、これまでの努力を出し切った選手、思うようなプレーができなかった選手、沢山の選手の物語をテレビの前で見ることができた。
感染症が襲った最悪とも言えるタイミングだけど、ここでこうして生きて、一緒にここでしか感じることのできない熱を感じることができたことが人生において得た宝物の一つと言える。
友人と外から見た花火は別格だった。
全ての選手、関係者の方々にリスペクトを。
また東京に平和を象徴する祭典が舞い戻ることを心から祈っている。
私にとって東京オリンピックを一言で表すと『出会い』です。元々全くスポーツには興味がなくて、せっかくの日本開催だから開会式見てみようとしたのがスポーツにハマったきっかけでした。初日から沢山の競技を見て、すごいな~かっこいいな~と様々な競技を見る度に思いました。その中でもスケートボードと柔道は凄く印象に残っています。スケートボードは若い選手が多くて私と年齢も近く、若いのにすごいな~自分の強みを持っていてかっこいいと思いました。柔道でも沢山の選手と出会えました。相手選手を思って畳を出るまでは感情を表さない姿はスポーツマンシップに則っていて素敵だなと思いました。オリンピックを通して沢山のスポーツに出会え、感動や勇気を貰えるってこうゆうことなんだと感じました。コロナ禍で暗い気持ちになっている人、高校受験を控えていた私には本当に勇気を頂き、頑張るモチベーションを頂いたと思います。沢山の選手、スポーツと出会えて嬉しかったですし、無事に受験も合格して、沢山の感動を頂けて、オリンピックを開催してくださって感謝しています。そしてオリンピックを開催するにあたってサポートをしていた方々にも感謝していて、いつか私もサポート出来たらなと思いこれからも英語の勉強など、選手の皆さんのように努力を惜しまず、夢に向かって頑張ろう思います。
私は小学5年生のときロンドン五輪の開会式のショーと日本選手の活躍を見て感動し、五輪に興味を持った。翌年の東京2020開催決定というニュースを見て東京2020に何らかの形で関わりたいと思い、ボランティアで関われると知り、ボランティアに興味を持ちました。スペシャルオリンピックスの東海・北信越ブロック大会やマラソンフェスティバルナゴヤ・愛知などのボランティアに参加し、経験を積み夢であった東京2020のボランティアに向けて積極的にボランティア活動に参加したり、語学力を身につけたりしました。フィールドキャストやシティキャストに応募しましたが、残念ながら落選してしまいました。書類でだめだったのでもしかしたら自分の語学力不足ではなかったのかと思いました。気持ちを切り替え、組織委員会のHPを毎日のように見てあきらめずに何らかの形に関わりたいという気持ちは変わりませんでした。五輪・パラリンピック開閉会式セレモニーキャストの募集を知り、応募をしました。自分自身の小学校のときからの五輪に対する熱意を思う存分ぶつけました。その結果マッチングおよび抽選でパラリンピックのメンバーとして通過しました。しかし新型コロナウイルス(COVID-19)の感染拡大で大会が1年延期となり、式典も規模縮小となり、再抽選を行うと言うことを知りました。再抽選でも抽選に通るかドキドキしていたら、再抽選にも通過し、まさに一生の運を使い果たしました。夢がついに叶うという形で感無量な気持ちでした。
練習や本番当日、国立競技場のフィールドに立った瞬間、夢の中で見た世界が現実になった瞬間とてもうれしかったです。夢を叶えるまでいろいろな人に支えてくださいました。その支えに応える形でここまで来たという感謝の気持ちを伝えました。人生で一番最高の思い出でした。自分がオリンピック・パラリンピックに出会ってよかったと思いました。夢が叶ったからこそさらなる夢ができました。それはパリやミラノ・コルティナダンペッツォ、ロサンゼルス、ブリスベン大会にも関わったり、2025年大阪・関西万博に関わることです。そのために私は語学力向上に向けて頑張りたいです。
私は本番のときにいろいろな地方や年代の人と出会い、一緒に大会を盛り上げることができました。そしてそこで日本全国の人と出会ってみたいという気持ちができ、47都道府県に友達を作るという夢ができました。47都道府県に友達を作り、日本全国にも違った考え方や価値観があり、多様性を学ぶことができると思ったからです。その多様性を多くの人に伝えるために朝活をやりたいなと思っています。
私にとって東京2020大会はいろいろなことを学ぶ大会だったとこの1年で振り返りました。私はさらなる夢に向かって大学の勉強や就活を頑張りたい。
私は、昨年7月東京都の聖火ランナーとして参加させていただきました。
幼稚園の頃からチアダンスを行い、スポーツを応援すること、すべての人を応援すること、かかわる人を笑顔にすることをチアダンスを通して知ることができました。さらにアメリカで行われたチアダンス大会に参加し、優勝することができ、スポーツで活躍することで周りの人、応援してくれる人が喜んでもらえることを知ることができました。
その経験を活かして、東京で行われるオリンピックに関わりたい、みんなを笑顔にしたい、みんなを応援したいと思い聖火ランナーに応募し、参加させて頂きました。
聖火ランナー内定から東京オリンピックが身近なものになり、オリンピック、聖火についてこれまで知らない多くのことを学ぶこともできました。
コロナ禍が始まった2020年3月、日本に到着する聖火を仙台松島まで連れて行ってもらい迎える事ができ、7月の東京での聖火ランナーを心待ちにしていました。しかしコロナウイルスがまん延により一年延期が決定し、オリンピックが無事開催できるか、聖火リレーが開催されるか不安になりながら一年待つことになりました。
私は一年後、無事開催されることを願いながら、自分がつなぐ予定だった聖火が日本オリンピックミュージアムにあることがわかり、見学にもいきました。この一年間の延期でさらにオリンピックへの気持ちが大きくなり、みんながオリンピックを通して笑顔になれるように開催してもらいたいと思うようになりました。
コロナウイルスは、終息することがなく3月になり聖火リレーが再びスタートし、無観客で開催することが決定しましたが、私は東京オリンピック、聖火リレーを通じて、厳しい環境でしたが少しでもみんなを応援して、笑顔にしたいとこれまで以上に思うようになりました。
私の聖火リレーは、残念ながら公道を走ることができずみんなを応援し笑顔にすることはできませんでした。でも両親、祖父母、友人、私のまわりの人は、笑顔で喜びオリンピックのスタートを迎える事が出来ました。
オリンピックは無観客でしたが、開催され素晴らしいスポーツの祭典でテレビで観るだけでも多くの感動をもらい、家族みんなで応援し、素晴らしい時間を過ごす事が出来ました。オリンピック、スポーツはみんなに勇気を与えたり、笑顔にしてくれる素晴らしいものだと改めて思うことができました。
私は、厳しい環境の中、東京オリンピックが無観客でしたが開催され、世界の多くの人に勇気や感動を与え、世界を笑顔にしたと思っています。
私は、東京オリンピックの感動、聖火ランナーの経験から学んだ事を活かして、これからもみんなを応援し、笑顔にしたと思っています。
ありがとうございました。
僕のオリンピックでの思い出は、今大会で金メダルを獲得した体操の橋本大輝選手と、ボクシングの入江聖奈選手にオンラインでインタビューをしたことです。TEAM
JAPANのオンラインインタビューイベントに応募したところ見事に当選し、インタビューをすることができました。
僕はこのインタビューでお二人の話を聞き、人生観が変わりました。中でも印象に残っているのが橋本選手にした質問です。橋本選手は僕の「試合前のルーティンなどはありますか?」という質問に対して「試合前も普段と同じ生活を送ること、特別なことをしないことがルーティンです。」とおっしゃっていました。僕は試合前や大事なテストの直前になると普段の生活を変えてしまい、焦りを感じてしまったり、ストレスを感じてしまうことがよくあります。そんな時に橋本選手の回答を聞いて、普段通りの生活をすることで普段通りの力が本番でも出せるのかと感心し、今では普段通りを心がけて日々頑張っています。
実際に金メダリストとお話をする機会などはすごく貴重な機会であって、僕の一生の財産です。機会をくださったTEAMJAPANの皆さん、橋本選手、入江選手ありがとうございました!
このインタビューの他にもオリンピックを身近に感じた場面がいくつかありました。その中でも特に思い出に残っているのは、地元の駅周辺で行われた聖火リレーです。オリンピックの聖火を一目見ようと、多くの市民が集まっていました。コロナ禍ということもあって、お祭りもイベントも開催できていなかったため、多くの人が盛り上がって、笑顔でいる姿を見ることができて本当に自分自身も幸せな気持ちになりました。聖火リレーと同時にパレードも行われ、本当にお祭りのような気分になれたのを今でも覚えています。実際に聖火を目にすることができたことも自分にとってはすごく感慨深いものでした。やはり力が宿っているという感じがし、パワーをもらいました。
その後も毎日テレビで放送しているオリンピックでの日本選手の活躍を目にし、一生懸命に種目に取り組んでいる姿や仲間との絆に感動しました。
何年後になるかわからないけれど、また日本にオリンピックが帰ってきてくれることを僕は願っています。オリンピックはやはり特別な力を持っていて人々に希望や勇気を与えてくれる存在だと僕は思います。
私は一年前に開催された東京大会で初めてオリンピックを見ました。開会される前まではスポーツについて無知だったし、あまり見る機会もなかったのですが、始まってみるとあっという間の1ヶ月間で、気づいたら朝から晩までのめり込むようにテレビに映る中継を見ていて、閉会式が来てほしくないと毎日思うほど夢中になっていました。初めて知るルールやプロのアスリートならではの常識を覆すようなプレー、人間離れした強さなどにワクワクしたり驚いたりして毎日が本当に楽しかったのを覚えています。新型コロナウイルスの影響で実際に競技会場に足を運んで自分の目で試合を見ることができなかったのはとても残念でしたが、そんなことも忘れてしまうくらい得点が入ったら喜んで、逆にとられたら悔しくて自分も実際の会場にいるような気持ちで応援することができました。家にいながらこんなにも楽しめたのは、オリンピックが無事に閉幕するまでの間、円滑に進むよう裏で支えてくださっていたボランティアの方々のおかげだと思いました。自分も将来、日本でオリンピックが開催される機会があったら是非ボランティアの一員として、選手の方々がベストを尽くせるようなお手伝いをしたいと思いました。また、まだまだ知らない競技も沢山あるので、もっと深く知って応援したいと思っています。
私は今まで何か一つをこんなにも夢中になったことがなかったのですが、オリンピックを通して私が1番夢中になれること、「スポーツ」と言うものに出会えました。そして、仲間の大切さや人同士の繋がりの大切さも知りました。スポーツがこんなにも熱くて、愛溢れたものだともっと沢山の人に知ってほしいし、もっと魅力を広めていきたいです。
ボランティア活動に行くべきなのか、それともやめておくべきなのか…。
コロナ禍で、自分が感染して家族に迷惑をかける事になったら後悔するのではないか?オリンピック・パラリンピックの開催も賛否両論ある中で、ボランティアのユニフォームを着て電車に乗っていたら、反対している人に何か言われるのではないか…。いろいろな葛藤の中、迫ってくる参加初日までの日々は、迷いに迷って過ごしていました。参加初日の朝まで、行くか辞めるか迷っていましたが、「申し込んで参加すると言った以上、責任を持って果たすべき!」と自分に言い聞かせて自宅を出ました。
しかし、そこからパラリンピックが終わるまでの約2ヶ月は、充実した日々となり、ドキドキしながらもワクワクするボランティア活動になり、2度と経験できない経験をさせていただきました。
私の活動場所は、選手村のフリートドライバー。その中でも一番印象深かったのは、選手を選手村から練習会場に乗せて行った時でした。
戦火のアフガニスタンから逃れて、遅れての参加の方だったので、母国の事を考えると心配なのではないか?明るく接して良いのか?迷いながら目的の会場に向かいました。走行中、バックミラーでチラッと見える姿を見て安心しました。そう、キラキラした瞳で車窓を眺めていて、とても楽しそうな顔をしていたからです。「それなら良かった。車窓を楽しんで!」話しかける事なく、静かに車窓を楽しんでもらい、会場に到着。「練習頑張ってきて!」とつたない英語で明るく声をかけることができました。そして彼女からは「ありがとぅございます」と何度も拝みながら言ってもらい、とても幸せな気持ちになりました。
活動期間中、良いことばかりではありませんでしたが、良かったこと悪かったこと全部ひっくるめて、今となっては良い思い出になっています。その思い出を、今でも語り合える仲間ができたことこそ、TOKYO2020大会ボランティア活動をして得た宝物です。
今までテレビの中の出来事だったオリンピックが、東京での開催が決定した!というのはビッグニュースでした。私の周りは、どうせ関われないし関係ないという空気が濃厚でした。でも、その頃からずっと楽しみでした。もうすぐボランティアを募集します、とニュースで知った頃は、仕事や家庭もあるし現実味を帯びていなかったのですが、その夏くも膜下出血で入院して、死ぬことについて考えた時、やり残したことは…オリンピックだ!と思い至り、その年の誕生日に応募しました。
スマホの画面にボランティアの登録画面が表示されて、面接や研修に参加して、会場で出会った人たちと「担当は何?」と情報交換しながら少しずつ楽しみのピークを登っていきました。
私は合計28日間選手村でオリンピック・パラリンピックに関わることができました。競技以外にこんな仕事もあるのか!と毎日が発見でした。旅行会社や運送会社、清掃会社やスポンサー企業等様々な業種の人に会って、どんな仕事をされているのか話を聞いて、世界を相手にするイベントの大きさを実感しました。
ボランティア仲間も真面目に厳しく仕事をこなす人、一生懸命暑い中で声を枯らして仕事をする人、得意な語学を活かして活躍する人など本当にたくさんの素晴らしい出会いがありました。もちろん、活動する中で嫌な思いもしましたが、それも今となっては笑い話の一つになりました。
1番の思い出は、ウルグアイ大会関係者の車椅子を押して目的地まで送り届けたことです。一期一会だと思っていましたが、その後に仕事に来ていた選手棟で再会し、その後も何度も挨拶をし、スマホの翻訳を通じて話すことができました。その関係者も入れ替わり立ち替わりやってくるボランティアの1人と写真撮ったなー、と覚えていてくれたら嬉しいです。
ちょうど今から1年前の7月24日。
新千歳空港に降り立った私は、オリンピックが醸し出すワールドワイドな雰囲気に飲み込まれていました。大通会場に特設された5色の輪のシンボルを撮影すると、「いよいよだ。」という気持ちが込み上げ、ボランティアジャーニーのラストスパートとして素晴らしい一日の始まりを感じました。感染症の影響で1年間延期となったオリンピック、そしてボランティアとして登録されてからこの日を本当に待ちわびてきました。支給されたボランティアウエアに袖を通すと、この日の青空に負けないくらいのすがすがしい気持ちとともに、これから出合う出来事や出会う人々への期待が膨らむ一方でした。
札幌ドーム会場では、男子サッカーの試合のためのピッチ清掃や、大会関係者の案内等を務めました。男子競歩とマラソンが行われた大通会場では、選手たちの闘志を間近にして応援の気持ちともに改めて感動の瞬間が多くありました。
日本で行われた2回目のオリンピック。今回応募した理由の一つとして、教員として関わる子どもたちに、人種や性別、また文化を越えた思いやりやおもてなしの気持ちをもつことの大切さや、人と人とのつながりの温かさを体現したいというものがありました。この経験を授業の中で子どもたちに伝えることで、オリンピックボランティアとしての自身の取組がより幅広い視野や視点で、多くの子どもたちに伝えることができました。このことは、本当に私にとって一生の忘れられない思い出となりました。
世界情勢が厳しい昨今、未来を生きていく私たち大人だけでなく子どもたちの橋渡しとなるような意義が今回のオリンピックにはあったと感じています。「思いやり」の心が日本人だけでなく、世界中に広がり、多くの人々の心と心とをつなげてよりよい日本や世界になっていくことを願ってやみません。
わたしと東京2020大会の思い出
東京2020大会に関わろうとする動機はそれぞれ千差万別だろうが、私のその動機は妻の「オリンピックを見ることができるかな?」の一言があったからです。
妻はリオオリンピック後に体調を崩し、病院での診察の結果癌と告げられ余命宣告を受けました。それは縁もあるのでしょう。私と妻は前回開催された東京オリンピックの1964年生まれの同い年なのです。
私は何としても妻の夢を叶えさせるため「一緒に東京オリンピックを生で見たい、でなければ何か携わりたい」と奔走しました。一般販売のチケットを50万円以上掛けて申し込みをしました。しかし全て抽選で外れてしまって途方に暮れていたところ、ボランティア募集の公告が目に入ったのです。どのような役職、何の競技種目に当たるかは不明でしたが、ボランティアとしてならば「(一緒に)東京オリンピックに携わることができる」と考えたのです。
しかし、開催予定であった2020年を妻は迎えることができませんでした。
結局、フィールドキャストとなった私は一人で参加し、IF(国際競技団体)ドライバーとして世界各国の競技役員を送迎することになったのです。
競技役員の送迎中に会話制限はありましたが、各国の競技大会で重鎮と思しき人達は、片言の英会話でもその人物像がバックミラー越しに頼もしく、ちょっとした笑いを含む言葉を楽しむことができました。
そして、車のダッシュボードに妻の遺影を掲げていました。妻と出会った頃、よく夜の都内を一緒にドライブしていたのです。その景色は30年も経ち比べることはできませんが、その遺影写真を見た各重鎮から「you
have my sympathy(お悔やみします)」の言葉を何度も聴き、「一緒に東京オリンピックを見ることができたね」と運転しながら妻の写真に語りかけたものでした。
一方で、このボランティア活動が契機の一つとなり、学生時代からスポーツしていたこともあって、直ぐに障がい者スポーツ指導員の資格を取りました。そして、障がい者のスポーツ大会のみならず、子どもたちや一般のスポーツ教室や大会運営の補助として支援するようになりました。
今はパリやロサンゼルスオリンピックにボランティアとして参加の準備をしており、札幌2030オリンピックが開催された際には、「移住してでもボランティアをしよう」と妻に感謝しています。
カシマサッカースタジアムの活動最終日、活動後のPEM(人財管理)ミーティングは卒業式そのものでした。
2020年五輪が東京に決まった時、何か爪跡を残したいと思い選んだ道がボランティアでした。(例え日本語しか話せなくても、ゴミ拾いなら役に立てるかなと思い)
延期から無観客とコロナと向き合いながらの開催となり、日々状況が変化する中、現地研修も5日前と必ずしも『準備万端』とは言えないで迎えた本番当日ですが、組織委員会の方の強いリーダーシップのもと、自分達フィールドキャストを含めた『KIS★PEM』が始動しました。
それは、PEMの役割であるチェックインカウンター、ダイニングの運営においても同じです。
どうしたらコロナと向き合いながら無事に大会を終えられるか、どうしたら大会関係者の皆さんが安心して楽しく活動してもらえるか、そして勿論、どうしたら自分(達)の良い思い出として、Tokyo
2020フィールドキャストを終了出来るか。
役割、立場は違えどそれぞれの意見を持ち寄り改善して行くことにより、景色は見る見る変わって行きました。
同じ思いを持った人のパワーは、凄い威力を発揮するのですね。数日前迄は顔も声も知らない他人の集まりが、それぞれが出来ることを行動に移し、周りの人は『ありがとうございます』と声をかけ、日々成長すると2週間でこれだけ素晴らしいチームとなるのですから。これがスポーツボランティアの一番の醍醐味だと思います。
そしてカシマでの試合の最終日(8/5)、全ての作業を終え最後のミーティングでLINEのグループを作り、今後の再開を誓い、それぞれの思い出を語ったのが冒頭の卒業式でした。
今後の再会は何時か分かりませんが、こんなに素晴らしい仲間と出会え、活動し、やり遂げられたことが一番の思い出であり誇りです。
後日談ですが、『東京2020大会1周年記念セレモニー』では有観客の中、国立競技場のパレードに参加させてもらいました。そして、LINEグループの今の合言葉は『札幌行っちゃう!』です。まだ、何も決まっていないのに。
オリンピックボランティアをすることは私が高校生の時から抱いていたひとつの夢だった。そしてその募集が開始されたのが2018年。私は大きな期待と共に迷わず申し込みをした。その時から自分の中での東京オリンピックはすでに始まっていたけれど、まさかコロナ禍で開催が1年延期され、またさまざまな制約の中で競技が行われるなんてその時はまったく夢にも思わなかった。
開会式当日、街ではブルーインパルスが印象的な飛行を見せ、国立競技場の夜空には無数のドローンが輝きを放つ。4年に一度のスポーツの祭典。コロナ禍といえど、その日は街でも人々の高揚感が感じられた。いよいよ始まるんだなというワクワクと、本当にこのオリンピックは成功するのだろうかという不安な気持ちをきっと誰もが持っていただろう。
私はシャペロンとしてこの大会に参加した。主な仕事として競技終了後の選手にドーピング検査の通告を行う、ドーピング検査室までの誘導と監視を行うなどがあった。つまりオリンピアンと直に触れ合える仕事だ。その時の経験を振り返ると、オリンピアンをカートに乗せて自分の運転で送迎したことは貴重な経験だったなと実感する。ただ送迎するだけなのに、緊張してハンドルが手汗でビチョビチョだったのは今となっては良い思い出だ。また、シャペロンという仕事の性質上、実際に彼らが競技を行なっているところを見学することが出来たが、無観客での開催となった今回のオリンピックで、実際に生で競技を見れた数少ない1人となれたことはオリンピックボランティアとして活動した人だけの特権だと感じた。
特に思い出深い記憶として、オリンピック競技として初めて開催されたスケートボード(ストリート)が挙げられる。実際の競技会場となった江東区を地元として育った堀米雄斗選手の金メダル獲得が決まった瞬間に立ち会えたことは僕の人生の誇りと言えるかもしれない。堀米選手の出番になると、言葉に出さなくとも会場にいる誰もがトリックを成功させて欲しいと願っていたし、実際に大技を成功したときの会場全体の割れんばかりの拍手、そして金メダル獲得が決まった時の温かな雰囲気、何よりもメダル授与式で揺れる日本国旗をバックに表彰台の1番高いところで少しはにかみながらメダルを掲げる堀米選手の姿を見たときはそれだけでオリンピックボランティアをやってよかったな〜と思える瞬間だった。
こういった心を揺さぶる感動を人生であと何回味わえるのだろうか、それはおそらく今後の自分の生き方次第だろう。だからこそ、僕が今回オリンピックボランティアに興味を持って参加したように、何事にも興味を持ってトライしてみることはとても大事だと感じた。コロナ禍の2021年、私が大学生になって3回目の夏は一生記憶に残るものとなった。
念願のオリンピックボランティアに採用されたものの、担当競技は縁もゆかりもない空手で活動期間は前日研修を含めても4日間。加えて無観客開催と、オリンピックの高揚感とは程遠い気持ちで開会式を迎えることとなった。ところが、そこで練習会場ボランティアの追加募集に手を挙げた事から忘れがたい経験が始まったのである。ボランティア活動は宝物と言った人がいるが、確かにその言葉が胸に深く刻まれた。練習会場では初めて触れる空手の迫力、国を代表してオリンピックに参加する緊張感・喜び・使命・気合といった様々な要素を含む選手のオーラに圧倒され、空手の面白さにどんどん引き込まれていった。深夜に偶然インターネットで女性空手選手の動画へのリンクを発見し開いてみたのも自分にとって空手が特別なものになってきていたからだといえる。アゼルバイジャンのイリーナ・ザレツカ選手が「ニッコリ」という日本語を素敵な言葉として動画で紹介していた事からニュースサイトに取り上げられたらしい。来日から日を追って複数の動画が上げられており、なんと練習場の画面には受付の私達ボランティアの姿もあった。ビックリである。私のオリンピックが練習会場の東京武道館から一足飛びに地球規模になった瞬間だった。翌日は日本武道館でボランティアチームの会場見学が行われたのだが、我々はそこで偶然アゼルバイジャン選手団に遭遇した。ザレツカ選手に「ニッコリ」と声をかけたところ、驚いた後に嬉しそうに「ニッコリ」と返してくれたので「私達はあなたの動画に写っています」と伝えたところ、なんと翌日にはそのやりとりがボランティアへの感謝の言葉とともに動画としてアップされたのである。日本選手団の活躍もあり、空手競技はオリンピック終盤を大いに盛り上げたと思う。ザレツカ選手も順調に勝ち上がり、最終的に銀メダルを獲得した。金メダルが叶わなかったのは残念であったが、言葉を交わした選手が表彰台に上がる瞬間は遠くから拍手を送るだけでも感動であった。そして、表彰式の後にメダルをかけた彼女と出会ったことから、私はメダリストとの記念撮影という素晴らしい思い出までも手にすることとなった。現在唯一心配なのはアゼルバイジャンの選手として出場していたが、ザレツカ選手はオデーサの出身ということだ。縁を得た彼女の事を考えるとウクライナ侵攻は本当に他人ごとではない。一日も早い停戦を願うばかりである。今回が初めての国際的スポーツ大会のボランティアであった私にとって全ての瞬間が興味深く貴重な経験となった。自らが実際に活動する前迄ボランティアは大会の補助的なピース、賛助会員のような位置づけのように思えていた。しかし活動で最も印象的であったのはザレツカ選手をはじめとする選手たちがボランティアを大会の一部として尊重してくれていた事である。ボランティア活動の意義の理解に少しだけ近づけたような気がしている。
東京2020オリンピック・パラリンピック大会を私はどんなに心待ちにしていただろう。東京が開催地に決定した時から、1人のボランティアとして活動する自分の姿が頭の中を駆け巡っていた。ボランティアに応募した理由は2つある。まずは、シドニーオリンピックでの忘れることのない素晴らしい経験をもう一度体験してみたかったからである。2000年にシドニーオリンピック・パラリンピックが開催された時、私はシドニーに住んでいて初めてボランティアとして活動する機会に恵まれた。すべてが新鮮で、一生の思い出となった。
2つ目の理由は、当時中学校の教諭をしていて、オリンピック・パラリンピックがどれだけ感動的なものかを生徒に伝えたかったからである。ちょうど、道徳が「特別の教科道徳」として教科化されることもあり、オリンピック・パラリンピックこそ道徳における「国際理解」の項目として最適であると思い「たすき」という教材を作った経験もある。
それほど心待ちにしていた東京大会であったが、コロナの関係で延期となり、2021年にも開催が危ぶまれた。中止を訴える抗議もある中での開催となった。自分の中では全く盛り上がりに欠けるような出だしとなり、せっかくユニフォームなどを受け取りに行った帰りの電車の中でも何となく重たい袋を堂々と持てない自分がいた。「どんな大会になるのだろう」と不安であった。
私の活動場所は、江の島のセーリング会場であった。初日のミーティングで、リーダーからいろいろな説明を受けた。プレス・オペレーションという部門で、国内外のメディアの方々のサポートが主な任務であった。いろいろな国のメディアの方々やボランティアの仲間たちとの交流は一生忘れられない思い出となった。外国の方々と会場内ですれ違う時には、“Hello.
How are
you?”という挨拶は自然と口から出てきた。また、日本人同士では「お疲れ様です。」と笑顔で挨拶するさわやかさは忘れることができない。メダリストたちの表彰式も目の当たりにして、お互いをたたえ合う姿には本当に感動させられた。
閉会式では、橋本東京2020オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会会長から、「この大会はボランティアの皆様の支援なしでは成り立たなかった」との言葉を聞き、嬉しさでいっぱいになった。大会を振り返ると、外国の選手たちは日本人の「おもてなし」の文化を非常に高く評価して帰ったといろいろな場面で報道されていた。ほんの小さな気遣いから、大きな歓迎の心まで、オリンピック・パラリンピックは「人と文化の交流」であったと思う。
今年、中学校を定年退職した。退任式で生徒に伝えたことは「東京オリンピック・パラリンピックで学んだことは数知れないけれど、最もみんなに伝えたいことは『多様性』が今後私たちが生きていく社会におけるキーワードであり、違いを認め、尊重できる人になって下さい」だ。
東京オリンピック。特に目立つ事が好きなわけでもない自分が、ふと見つけた聖火ランナー応募の記事。本当に締め切り間近な事でした。素直な気持ちで何も考えず応募の文章を書いた。まさか、選んで頂けるとは考えもなく。
でも、小さい頃から近所にいるオリンピアンのおかげが、大会などにはとても興味があり、自分も何かの足跡を思い出に残したいとは思ってた。もちろん、そんな応募した事など、家族や友人、ご近所さんにも全く内緒で。
その頃、実は自分の甥っ子が癌という病に蝕まれていた。甥っ子にも夢や希望を与え、1日でも長生きできるように。そして辛い治療にも負けないように、なんでも良いから自分も何かしたかった。それは、もちろん応募文章にも一言も書かない、自分の中のもう1つの応募理由。
聖火ランナーに選出された時は、走る姿を見て欲しく本当に嬉しかった。これで何かの希望になればと。
ランナー当日は朝からスタッフの優しい対応、取り囲まれる取材。長い1日ではありましたが、本当に自分自身も1番楽しく過ごせた。走る前のカメラマンにも乗せられ、自然と笑顔も出せたし、こんな自分をアピールできる部分もあるんだなって思ったり。
ずっとずっとずっとずっと笑顔な1日でしたが、teamTOYOTAさんの囲み取材の質問に、つい甥っ子にこの姿を見せたかったと本音を漏らしてしまい、泣きじゃくり喋れなくなった。そう、聖火ランナー姿を見せる夢は叶わなかったから。
その後、聖火ランナーのトーチを甥っ子にも、もちろん見せてあげたし、ご近所さんや親戚、見せてあげたい人には見て頂きました。それを話題に話も広がるし、いろんな人にランナーしてるのを知られびっくりされたり。自分だけじゃなく、オリンピックという祭典の喜びを、わずかながらみんなに分かち合えたと思う。あれから1年以上なりますが、まだみんなにトーチを見てもらったり、話題作りで話も盛り上がります。
一生のうちに、国内で夏のオリンピック開催なんて、きっと1度くらいだろう。そのほんの1部に関われた事が自分の自信にも繋がった。やればできる、楽しもう、自分をアピールしてみる、そんな過去に無かった自分をオリンピックは引き出してくれました。
これからの人生、またなにが自分も出来るかな。何が起きるかな。ワクワクする気持ちを、これからも大事にしたいです。
開催してくれて、本当にありがとう。こんな時勢だけど、オリンピック本当に楽しかった。
東京オリンピックということで、どの競技もリアルタイムに見れたのが良かった!今まで知らなかった競技フェンシングのエペ、ルールもよく分からないけどなんか日本人が頑張ってるなーと見始めた!そのうち、解説者のルール解説など聞いていくうちに、どんどんのめり込んで、家族全体で応援してました!どんどん勝ち進んでいく選手、ポイントが入る度に、ヤッターと家族全員で喜ぶ、久しぶりに家族全員が同じことに一喜一憂し、いつも滅多に他のスポーツを見ない父までもが喜んでいた!
やっぱりオリンピックってすごいなーって思った出来事だ。無観客だったのは残念だが、すごく盛り上がったことを思い出す。
そして、1番盛りあがったのが男子バレーボール!
龍神NIPPON!
セッターじゃない石川選手があげて西田選手が決めた時は、興奮した!
え?いまどうなった?
石川選手打つと思ったのに!!と見てるこっちまで騙された瞬間だ!!!リアルハイキューだ!と思ってたら、SNSで他の皆さんも思っていて、日本がひとつになってるなーーーって思った出来事でした!!感動をありがとう!
私は東京でオリンピックが開催される事が決まった時、絶対に現地に観に行くと心に決めました。特にスポーツをしていた訳ではないのですが、毎回オリンピックのある年には親や友人とオリンピックを観ては熱くなっていました。東京2020のチケットを応募し、「当選」の文字が見えた時本当に嬉しかったのを覚えています。しかしコロナウイルスの影響で無観客試合となりとても残念な気持ちになったのと同時に、前代未聞なオリンピックはどうなっていくのだろうと不安にもなりました。また私はコロナ病棟で働く看護師なのですが仕事も忙しくなり、オリンピックを楽しむ余裕も無くなっていました。しかしそんな中で堀米選手の演技は素晴らしく、いつも暗い病棟の中でも皆が休憩室で熱中して観るほど引き込まれました。金メダルを取った瞬間は今でも忘れることが出来ません。疲れきった顔で仕事をしていた同僚も皆笑顔で金メダルを喜びました。その笑顔のまま仕事を頑張ろうと思えました。スポーツの祭典というのが相応しく、皆に元気や希望を与えるとはこの事かと感じました。今回のオリンピックは私の中でも忘れられないオリンピックとなっています。次はぜひ有観客の状態の日本で観戦したいです。
次男が去年のオリンピック期間中に誕生しました。
実はオリンピックのソフトボールのチケットを持っていたのですが、それがまさかの次男の誕生日の日付のチケットだったのです。
なんだかとても運命を感じてこの日を選んで生まれてきてくれた次男にとても感謝しています。
次男がすやすやと寝ている間にサーフィンの競技をみていました。
コロナ禍で面会もできなかったので病院にいる間は少し寂しかったのですが、オリンピックで選手の皆さんが頑張っている姿を観ると私も育児頑張ろう!と思えました。
そんな次男ももうすぐ1歳の誕生日を迎えます。すくすく育って将来はオリンピック選手のように何か一つ目指す物を見つけて努力できる人になってくれたら嬉しいなと思います。
正直コロナ禍の状況で、オリンピックを開催するのは簡単なことではなかったと思います。選手の皆さんはコロナの影響で、制限のある中トレーニングに励まれた。また、コロナ禍に大規模な世界的イベントを開催することが適切であったかどうかについては、様々な意見があって当然かと思う。しかし、悲惨な状況が続いた1年半を経て、オリンピックは必要な気晴らしを与えてくれた。
オリンピック開催に向けて長い期間準備をしてきた人々にとって思い描いていたものとかけ離れていたが、それでも多くの点で驚くべきことがあった。ヒディリン・ディアスがフィリピン史上初の金メダルを獲得、エレイン・トンプソンが100m走で金メダルを獲得し世界最速の女性になったりと、画期的な出来事が起こった。メダルをこえた感動が生まれたことは確かだ。前例のない親善、スポーツマンシップ、プレッシャーの中での優しさを通して、学びや勇気、インスピレーションを与えられた瞬間がたくさんあった。選手はもちろんのこと、オリンピックに携わった方々に只々感謝しかありません。本当にありがとうございました。
東京2020大会が決まった時、私は当時21歳でした。鹿児島出身の大学生であり、教員採用試験を控えていました。元々東京で教員をやりたい気持ちはあったものの、東京2020大会開催が決まった瞬間、より東京上京への気持ちが強くなりました。
2年の試験を経て、念願の東京都の採用試験に合格し、教員として働くことができ、毎日嬉しい気持ちで胸がいっぱいでした。順調に一年一年と過ぎ、2019年には、ボランティアの募集やチケット抽選が始まり、仕事の合間をぬってできる限り全てに応募しました。結果は、努力が足りなかったせいか、全て外れてしまいました。また、新型コロナウィルスの感染拡大により1年延期、無観客試合と前代未聞のことが発生してしまい、運営されている方々や選手の皆さんの気持ちを考えると胸が痛い日々でした。このように、東京2020大会を迎えるまでに様々なことがありましたが、大会ではこれらの苦難や困難を全て『感動』と『スポーツの力』に変えたと私は思います。
私は、東京2020大会の中でも開会式、バレーボール、サッカー、陸上、卓球、競泳、体操、閉会式を中心にテレビで見ていました。男子バレーボールや陸上の男子400mリレーでは、選手の方々が悔し涙を流してる姿を見て、同じく悔しい気持ちになりました。自分が言える立場ではありませんが、選手の皆さんに「感動を、そして、夢をありがとうございます!」とお伝えしたいです。
2024年にはパリ大会、2028年にはロサンゼルス大会があります。これらの大会に向けて、選手の皆さんは悔しさをバネに努力を積み重ね、試合で戦っている姿をよくテレビで見ます。『私の趣味はスポーツ観戦!!』といろんな方にお話しているぐらい、テレビや日本で試合がある時は、現地で応援しています。今は、遠い所からの応援ですが、パリ大会やロサンゼルス大会では、是非現地でボランティアや一観客として応援したいと強く思っています。『スポーツの力』は、偉大だと感じます。パリ大会やロサンゼルス大会、その他の様々な大会が選手の皆さんはもちろん、世界中の皆さんの安全を守りつつ、実施できることを心より願っています。
昨年、東京オリンピックの期間中に結婚しました。
私と妻は元々サッカー観戦を通じて知り合い、サッカーのオリンピックの予選なども一緒に観戦することがとても楽しみでした。
サッカー以外のスポーツも好きなので、オリンピック、パラリンピックのチケットはサッカー、陸上などを7日分購入していたのですが、観戦することができなかったのは、残念でした。
しかし、入籍の当日、花屋の父と母が、メダリストが持っていたビクトリーブーケを見て、オリジナルのビクトリーブーケを作って持ってきてくれました。
サッカーを観戦する予定だった東京スタジアムまで行き、写真を撮ったのが最高の思い出です。
現地での観戦は叶いませんでしたが、毎日夫婦でテレビをつけて応援し、昨日も一緒に東京2020大会1周年記念イベントに参加してきました。
東京出身の私にとって東京オリンピックはとても特別なものであり、夫婦にとっても一生忘れられない思い出になりました。
今の私の夢は、いつか妻と一緒にオリンピックを観に行くことです。
地元の選手が出場すると聞き、初めて見たアーチェリーはとても格好良いものでした。張り詰めた緊張感、矢が的のど真ん中に入ったときの爽快感。応援していた選手は途中で負けてしまいましたが、別の日に団体戦があると知り、ワクワクしながらその日を待っていました。そして迎えた男子団体戦。準決勝では延長戦で惜しくも敗れ、応援の熱が入るブロンズメダルマッチ。一本一本、一喜一憂の手に汗握る展開の末、再び延長戦に。メダルが決まる最後の一本は、本当に吸い込まれるように的のど真ん中へ…!勝利が決まった瞬間の日本チームは心の底から喜びに溢れているのが垣間見え、とても感動しました。
すっかりアーチェリーの虜になった私は、パラアーチェリーも観戦しました。選手それぞれの創意工夫の上、放たれる1射。どんな障害を持っていても、シューティングラインの上では横並び。アーチェリーは、男女・障害も関係なくできるというスポーツだと知り、感銘を受けました。
その頃私は難病と別の病気を患っており、コロナのこともあって気落ちする日々でした。そんな中、オリンピック・パラリンピックを見ることで、自分の持てる全てをぶつけて戦う選手の皆様に、限界なんて決めつけて諦める必要なんてないんだ、と教えて貰いました。
幸運にも地元でアーチェリー教室が定期的に開催されています。お陰で念願のアーチェリーをすることができました。とてつもなく弓を引くのは大変で、真ん中に当てるのはもっと大変ですが、自分と向き合いつつできるアーチェリーはとても楽しいです。なかなかキツイ筋トレですが弓を引くため!と、頑張れているのが不思議なくらい続いています。
生涯スポーツとも言われるアーチェリー、これからも長く付き合っていきたいです。