トップアスリートを支えるもう一人のヒーロー
競技で求められる動きができる体のベースを作る
白木 仁
技術力の向上だけでは勝利は手にできない。土台となるフィジカル・コンディションが整って初めて総合的な競技力は向上する。そこで、体の構造を知り、日々のトレーニングから本番までのコンディショニングを担当するのがアスレティックトレーナーだ。

一昔前まで「トレーナー」と言えば、マッサージをするか、ケガをした時に応急処置をする人と認識されていた。それは、高校、大学と陸上部でハードルの選手だったが、ヒザを故障し、トレーナーの道を歩むようになった白木仁も同じだったという。雑用も行う、「マッサージ付きのマネージャー」。その認識が変わるきっかけとなったのは、プロ野球の工藤公康選手との出会いだった。
「彼はハムストリングを肉離れしていました。陸上競技ではよくあることだったので、これなら治療も何もしなくてもトレーニングすれば治るし、トレーニングを行うことでケガをしない体が作れる、と言ったのです。それが彼には新鮮だったようです」
その後、2人は意見を交換しあいながらケガを予防し、体のベースの部分を鍛えるトレーニングメニューを確立。その結果、40歳を過ぎた今でも工藤に現役で第一線の活躍をさせていると白木は言う。
「プロには次がありません。今年肩が壊れたら来年はない。だからトレーニングも真剣にするし、勉強もする」
そんな厳しいプロ意識に触発された白木は、同時進行で携わるようになっていたスピードスケートでも「やはりメダルを取れなければ意味がない。トレーナーもそこに関与するなら、通り一遍のことをやっていればいいというものではない」と感じるようになってきた。
主に陸上競技を見てきた白木だったが、1991年からスピードスケートでオリンピック出場を狙う結城匡啓選手のサポートを始めた。続いて同じ実業団チームに所属する楠瀬志保選手も見るようになり、そこで2人の所属チームの佐藤博義コーチにアドバイスを求められ、フィジカル・トレーニングのベース作りに取り組み始めた。これは後に長野オリンピックでの清水宏保選手の金メダルという形で結実する。
「リレハンメルの後、毎年のワールドカップで前日はこう、当日はこう、外が気温零度前後ならこれをやる、やらないと決め、長野の1年前にはトレーニングからマッサージの方法まで完成していました。完全なシミュレーションも行い、このままいけば長野は大丈夫と思われていたのです。しかし、スラップスケートの登場で、すべてが水泡に帰してしまいました」
トレーニングで手足を長く見せる

長野オリンピック後、スピードスケートを離れた白木は、シンクロナイズドスイミングのサポートをすることになった。だが、自分が泳げないこともあり、最初は気乗りしなかった。それでも、毎回メダルを獲得してくる井村雅代コーチに人物的な興味を持ち、合宿を見学に行った。
これまでは陸上もスピードスケートも0.01秒の記録との戦いだった。しかし、シンクロは採点競技。「記録勝負なら、やったことがダイレクトに跳ね返ってきたし、負ければ僕らのミスだと言えました。でも、シンクロは違った。第一、指先一本で前に、後に動き、水中で逆さまになっていても自分の位置関係がわかるということが、どうして可能なのかがわからない。『何をしていいかわからない、無理だ』と思いました」
だが、未知なる分野への好奇心から再び練習に足を運ぶことになる。そして、1999年にソウルで行われたFINAワールドカップに帯同。陸上とスピードスケートでやった試合前のコンディショニングを全部行った。日本はこの大会でチームもデュエットもロシアに次ぐ銀メダルを獲得。白木が本格的に代表チームのトレーニングを担当するようになったのはこの時からだった。
建物に例えれば、トレーナーは基礎作り。どんな建物をクリエイトするかはコーチの仕事だ。だから、「コーチのリクエストが明確でないと僕らは動けません」と白木は言う。井村コーチは明確だった。手足をきれいに長く見せ、水の抵抗を受けにくい寸胴型の体を作り、速い動きができるようにすること。それが、コーチから出されたリクエストだった。
「ソウルの大会を見た時、水から上に出る体の比率はロシアの選手と変わらないと思いました。決してロシアより低くないけれど、手足が短く見えるだけのこと。それなら手を長くしちゃえばいいんだ、となりました」

同じ手を挙げるにしても、腕を肩甲骨から動かすかどうかで長さは違って見える。つまり、トレーニング次第で手の長さの印象は変えられるというわけだ。
当然のことながら、選手には最初、そんな意識はまったくなかった。だが、絶対的な信頼をおいている井村コーチの指示とあらば、どんなに苦しくきついトレーニングであろうと、取り組んだ。
「井村先生は演技の中で『あんた、手が短いよ、トレーニングやっているんでしょ!』と指摘します。そうすると、選手は『そうか、あれか』と、トレーニングの意味を理解するようになります」 こうなればしめたものだ。意識は一変し、選手の方から「こうしたい」と言い、トレーナーと一緒に向上しようと努力するようになった。
「あの子たちは日本で一番トレーニングしていたかもしれない」と白木が言うシンクロ日本代表は、シドニーオリンピックで銀メダルを手にした。その翌年の世界選手権では立花美哉選手・武田美保選手組がデュエットで金メダルを獲得した。
シドニーオリンピックが終わった頃にはトレーニングの基本は決まっていた。しかし、白木はメニューだけ与えて、あとは選手任せといったことは絶対にしない。
「トレーニングで間違った動きをすると、それが技術を壊してしまいますから、必ず最低でも週に1回は自分の目と手でトレーニング中の動きをチェックします。トレーナーが筋肉に触れ、ここだよと確認することで、選手はどの筋肉を使うのかがわかるようになる。そして、たとえ数万回に1回でも、この筋肉が使えたとわかれば、後の動きは洗練され、大きくレベルアップします。だから、僕にはFAXでトレーニングのメニューを指示するだけなんてありえないんです」
自分の体に鋭敏になろう

トレーナーの仕事はフィジカル・トレーニングだけではない。マッサージも重要な仕事だ。マッサージは体をケアしてケガを予防するだけでなく、精神面のケアにおいても非常に大きな意味を持つ。
チームで気持ちが揺れるのはボーダーラインにいる選手で、自分はダメかなと思うと、トレーニングに身が入らなくなる。そこで白木はマッサージをしながら、個別に「今はボーダーだよね。じゃあ、何をすればオリンピックに行けるか、今行けないなら4年後を目指そう、そのために今やろう」とはっきり言う。選手は今やっていることの意味と、今やらないと次もないことがわかれば、翌日から目が輝いてくるという。
しかし、精神面の比重を高くするとトレーナーはできなくなる。
「この子に頑張ってほしいという気持ちが強くなると、自分の心を移入してしまいます。そうなると選手はトレーナーに言われないと何もできなくなります。こうなってはダメです。選手は常に疑問を持ち、もっといいやり方があるのではないかと思うぐらい傲慢でなければ、ステージはあがっていきません」
信頼と不信感の同居。それがステップアップのためのトレーナーとの付き合い方の秘訣のようだ。
「自分でやってみて疑問やわからないことがあれば聞いてみる。でも、そこで1から10まで聞く必要はなく、自分の感覚の中でいいものはいいと、とらえればいい。清水宏保選手はよく“筋肉と対話する”と言います。たとえレベルが低くても、その感覚はみんな持っているんです。だから、まずは自分の体と話し合うこと。すべて人任せにするのではなく、常に自分の感覚を鋭敏にしておいてほしい」
トレーニングはあくまでも部分であって、全体ではない。どれだけいいトレーニングをしようと、総合力に反映しないことには勝てないし、意味がない。トレーナーは、選手が総合的にランクアップした時に喜びを感じ、自分のやり方が間違っていなかったと確信する。
「信頼感は勝った時に得るだけ」と言い切る白木は、さらなるレベルアップを目指す選手の求めに対応できるよう、これからも研究に励み、その成果を実践に応用していく。
(敬称略)
※この連載は、JOC広報誌「OLYMPIAN2007年 vol.3」に掲載したものです。

1957年、北海道生まれ。筑波大学大学院人間総合科学研究科スポーツ医学専攻准教授。1979年筑波大学体育専門学群卒業後、大学院に進学するとともに、専門学校で柔道整復師の資格を取得。その後、トレーナーとしてスピードスケート、シンクロナイズドスイミングの日本代表、プロ野球の工藤公康投手、プロゴルファーの片山晋呉選手ら、多くのトップアスリートをサポートしてきた。