心に残るオリンピックシーン
ミュンヘン 男子バレーボール
『金色の夢舞台』への道のり 〜長田渚左
誰にでも、忘れられない記憶がある。忘れられない、オリンピックがある。
苦悩し、歓喜し、涙するアスリートたち——。
そんな彼らを栄光へと導く指導者たちの創意工夫とたゆまぬ努力。
ノンフィクション作家、長田渚左氏が取材のなかで出合った、心に残るオリンピックシーン。
市川崑監督の映画『東京オリンピック』は、人の心を揺さぶる力に満ち溢れた作品だった。今見ても、細部へのこだわりや説得力はスポーツの力と人間の魅力に引き込まれる。
ところが、1964年の東京オリンピックのバレーボール男子の監督だった松平康隆氏は、あの映画を見たときの屈辱は今も忘れないと振り返った。
「オリンピックの映画が完成したときいて、さっそく見に行った。3時間近い大作でした。今か今かと待ちました。ところが、男子のバレーボールについては1シーンどころか、1カットも無かったんです」
1964年東京オリンピックでバレーボールの日本男子は銅メダルを獲得していた。しかし当時はバレーボールといえば女子が代名詞であり、“東洋の魔女”の陰に隠れた男子は、歯牙にもかけられない存在だった。
その後、男子はさまざまなアイデアを取り入れ、1968年メキシコ大会で銀メダル、1972年ミュンヘン大会では金メダル獲得へと昇りつめた。
当時、ボールを拾う技術は、フットワークだと信じられ、疑うものはいなかった。ところが、その石のような定説に彼は、自らの選手経験から疑問を持っていた。そこで科学研究チームを招き、スパイクのスピードを計測した。
強力なデータを手に入れることになった。女子のスパイクしたボールは秒速18m。それに対し男子は1.5倍も速い28mだったのである。ではコート上でのボールと人間の関係はどうか。ネットからコートのエンドラインが9m。つまりコート上のボール通過時間は、28分の9秒。約0.3秒だと分かった。そして人間の全身反応時間もこれと同じ0.3秒。
つまり男子はスパイクされたボールを前に“コートの上で一歩も動けない状態”となることが分かったのである。
女子は男子より遅いから、得意の回転レシーブで間に合ってしまうわけだ。対策が練られた。瞬時に全身が時空を移動する“フライング・レシーブ”の発案だった。
「打球の落下予測地点の上、20cmに片腕を鋭く突き入れてボールを受け、次にタ、ターンのリズムで腕立て伏せをすればいいはずだ」
理論は明快だったが、練習を始めるやいなや体育館に破裂音が響いた。
鋭いガシャンという音は、アゴが砕ける音だった。次から次に選手はアゴを割った。
しかし全日本を率いる松平氏はひるまなかった。
最強チームのために、彼は徹底して大型選手を集めた。1964年の東京大会では183.5cm、そして8年後のミュンヘンには191cm。平均身長で8cmもの大型化を図っていた。
「その大型の選手が160cmの体操選手並に動けたときにフライング・レシーブが完成し、金メダルを掴めるはずだ」
身体調整能力への要求はとびきり高かった。選手全員に後方空中回転と9mの逆立ち歩行を命じた。そしてわずか半年後、選手全員が逆立ちで課題だった9mどころか50mもの距離を疾走できるようになった。
日本の大砲たちが、攻撃を連発する時に必要だった守備は、背中に翼のある男たちが拾い集める“フライング・レシーブ”だったのである。
一方、攻撃面においても彼は革命的な秘策を思いつく。
それは大ベストセラーとなっていた松本清張の小説『点と線』を読んだことによるものだった。『点と線』には2つの死体にまつわるトリックの切り札があった。
慌しく列車や電車が行き交う東京駅。13番線ホームから15番線の『あさかぜ』が見える一日にうちのほんのわずかな時間が、犯罪トリックのキーになっていた。
このキーポイントである一瞬だけ目の前が開ける時空間のくだりを読んだとき、これをコート上のタテの時間空間に置き換えた。エンドラインの後方で相手コートを見つめる内に、それまで頑丈な一枚岩に思えていた敵のブロックが、消える瞬間を感じたのだという。
「ネット上に東京駅・13番ホームが浮かんだんです」
一度ジャンプした人間は、次に何かしようとするときには、空中に浮かした足の裏を地面に一度着地してからしか、次の動作をすることはできない。
「・・・ということは、先に一度敵をジャンプさせればネット上には、誰もいない空間と時間が生まれる。その誰もいない間に、ボールを返せばいいんだ」
今や世界中の誰もが知る、おとり選手を使い相手選手の目をくらます『時間差攻撃』(ムービング・ディフェンシャル・アタック)を彼は松本清張の代表作『点と線』から発想した。
もし日本人がソ連、ブルガリア、キューバのように強靭で巨大な肉体だったら、百年かかってもバレーボールは単調なだけのゲームだったかもしれない。小柄で貧弱な肉体しか持たない日本人だったからこそ、時空間の盲点に気づいたのだろう。戦いは机上の計算どおりにはいかない。だからどんな試合にも盲点がある。
発想、発見、想像、思考・・・人間の叡智の終結が勝利を呼ぶことを信じたい。
松平氏の実践した極限の技の追及は、オリンピック史上で最も好きなストーリーである。
(2009.4.17掲載)
ノンフィクション作家。女性スポーツジャーナリストの草分け的存在であり、現在も旺盛な取材活動を続けている。NPO法人スポーツネットワークジャパンおよび日本スポーツ 学会代表理事。スポーツ総合誌『スポーツゴジラ』編集長。