アスリートメッセージ
アスリートメッセージ スケート・フィギュアスケート 安藤美姫
支えてくれる人たちの気持ちを音楽に乗せて滑りたい
写真提供:フォート・キシモト
写真提供:アフロスポーツ
写真提供:アフロスポーツ
扱いにくい子——。トリノオリンピックで15位に終わった後、それが彼女に貼られたレッテルだった。もともと感情の起伏が激しく、練習の調子や成績まで感情に左右されるタイプ。トリノの敗因は、その性格だとさえ言われる状況だった。それから4年。安藤は変わった。その激しさは、表現の豊かさという持ち味になったのだ。
自分の夢で終わったトリノ
「トリノオリンピックは、色んなことが分からないまま出場してしまいました。自分が好きでスケートをやっていて、オリンピックに出て、自分の夢が叶ってただ満足。注目されることの意味もわからず、いい声とマイナスの声があっても、マイナスの声ばかりが耳に残ってしまう状態でした」
この05−06シーズン、安藤はオリンピック最終選考となる全日本選手権で6位。前年までの成績を考慮して出場を決めたものの、冷たい意見は多かった。自宅周辺で張っている記者やカメラマンに警戒心ばかりが強まった。「トリノに行くときは、応援されている気持ちすらしなかったんです」と振り返る。
結局、実力を発揮できずにトリノオリンピックは幕を閉じた。自問自答の日々が続いた。
「オリンピック後も、非難の手紙や記者の取材が続いて、こんなにストレスがかかるならスケートを手放そうと思った時期もありました。でも一方で、あんなオリンピックの演技だったのに、勇気付けられたと言って温かい言葉をかけてくれる人もいて、考えました。私がスケートを続ける意味を」
自分の中で答えが出たのは、春先だった。「自分の人生の中には、スケートの安藤美姫というものがいるんだと、受け入れることができたんです」。そのことを語る安藤は、いつもより大人びた表情で、4年前の春を思い返していた。
06年春、気持ちを切り替えた安藤は、まずは子供の頃から習っていた門奈裕子コーチのもとでジャンプを修正した。4回転どころか、2回転ジャンプすらできないほどジャンプが崩れていたのだ。子供の頃に立ち戻り、1回転からフォームをつくり直すと、技術の自信を取り戻した。
さらに次に進む道を考えていた安藤に、思いも寄らない提案があった。髙橋大輔と荒川静香を指導するニコライ・モロゾフから振り付けの依頼があったのだ。
「髙橋君のプログラムの振り付けが大好きだったので、そんな方から声をかけていただいて嬉しかったです。気持ちがくじけそうになっていた時期だったので、頑張らなきゃって思えました」
06年5月、振り付けのためにモロゾフが拠点を置いているアメリカに渡った。ここで安藤は、「表現」の世界の扉をたたくことになる。もともとモロゾフの信条は、「選手の長所を伸ばす」ことだ。一方的に振り付けを押し付けるのではなく、安藤の長所を探す方式で、表現力の苦手意識を振り払ってくれた。例えば、何種類ものスパイラルをやって、一番綺麗に見えてグラつかないポジションを探す。ターン1つとっても、一番やりやすい方向を一歩一歩決めていく。技術的にフィットするプログラムにすることで、表現することへの気持ちの余裕を引き出す作戦だった。
「とにかく滑りやすいプログラム。自分にあったポースが何個も入っていて、でも人の印象に残る場面もある。技に気を取られずに滑ることができて、そしたら曲を聴いて感じることができたんです」
そして迎えた06−07シーズン、安藤はショートプログラム「シェエラザード」では曲の背景やストーリーを理解し、千夜一夜物語のお姫様の気分を味わった。またフリースケーティング「ヴァイオリン協奏曲」でも曲調を感じ取り、自分なりの感情を乗せて踊った。「初めて曲を理解して滑ろうという気持ちが分かってきました」と安藤。伸び伸びと滑るその姿は、前年とは別人だった。
07年2月の世界選手権では、3回転+3回転のジャンプも決め、ノーミスの演技で、浅田真央を逆転し優勝。新しいジャンプやスピンなどの技術的な改良をすることなく、たった1年で、15位から世界女王へと輝いた。世界の誰もが驚く飛躍。優勝が決まった瞬間、大きな声で泣いた。「ここまで来れたのは、門奈先生とモロゾフコーチのおかげ。こんな自分を見捨てないでくれて感謝しています」。涙も止まらぬうちに口に出たのは、感謝の言葉だった。