アスリートメッセージ
アスリートメッセージ スキー・アルペン 皆川賢太郎
(写真提供:フォート・キシモト)
皆川にとってトリノは、3度目のオリンピックだった。
最初の出場は1998年の長野冬季オリンピック。
指導を受けていた札幌冬季オリンピック日本代表の柏木正義氏の影響もあってか、小学5年生で新聞に取り上げられたときには「オリンピックに出たい」と語ったように、自然にオリンピックへの意識は持っていた。
高校時代には全国大会で活躍し、世界ジュニア選手権でも入賞を果たすなど年を経るごとに頭角を現していった。
やがてナショナルチームのメンバーとなり、迎えた長野。
地元開催の大会で、皆川はジャイアント・スラローム、スラロームともに途中棄権に終わっている。
しかしその後、皆川は世界でも大きな注目を集めることになる。1999-2000年のシーズン、ワールドカップのスラロームで2度6位入賞を果たしたが、その内容が衝撃的なものだったのだ。
当時、アルペン競技で使用するスキー板といえば、長さ190から200cmほどのものが常識であった。90年代後半、操作性の向上を目的として、極端に短いショートカービングスキーが誕生していたが、競技の世界では試行錯誤が続いていた。180cm前後の板を履く選手も現れていたものの、それより短い板だとスキー板の前後のバランスがとりにくいと考えられていたため、競技で使用する選手はいなかったのだ。
ところが皆川は、誰よりも短い168cmの板でもって、好成績をあげたのである。とくに2000年1月、オーストリアでのワールドカップのインパクトは大きかった。スタート順が早ければ有利となるこの競技で、60番スタートでありながら、見守る関係者を驚かせる滑りで6位入賞を果たしたのだ。
168cmのショートカービングスキーを使用し、1999-2000年W杯第7戦の
キッツビューエル大会で6位入賞を果たす
(写真提供:アフロスポーツ)
固定観念を捨ててショートカービングスキーに可能性を見出だす先取の精神をもち、トレーニングを入念に積み重ねることで使いこなすことに成功した皆川は、「ショートカービングスキーの革命児」の肩書きとともにアルペンの世界で語られるようになった。以後、世界各国の選手たちは、短いスキーを追い求めていった。のちに、国際スキー連盟が下限をルールで定めるほどだった。
翌シーズンの2001年2月にオーストリアで行なわれた世界選手権では10位。1978年の海和俊宏の7位に次ぐ記録である。
(写真提供:フォート・キシモト)
日本のエースとなり、期待を集めたソルトレークシティー冬季オリンピック。皆川自身も「メダルを獲る」という思いで挑んだ大会だったが、出場したスラロームの1回目で失格に終わった。
長野、ソルトレークシティーの二つの大会について、皆川は「出る前に疲れていましたね」と語る。
「まわりからの期待に対して、『俺やりますよ』とは言っていたものの、皆川賢太郎の背中を一生懸命自分で押している状態というか。要はまわりの人が騒いでくれることで一流になったつもりになっていた。かっこつけていたというのか。
実はそのシーズン、すごく練習もできて、かなり追い込んだつもりでした。でもやっぱり精神的に経験をもっていないし、自分の力の出し方がよくわかっていなかったんですね。のっているときは何も考えずに入賞したりするけれど、じゃあ狙って入ったかといえばそうではなかったんです」
失意に終わったオリンピックの翌月には、追い討ちをかけるような出来事が起こる。左膝じん帯断裂の怪我を負ったのである。
「はじめは簡単な怪我だと思っていたんですね。それまで大きな怪我をしたことがなかったし。手術が終わり、立つことだけでも1週間くらいかかったときに、とんでもない怪我をしてしまったんだと分かった」
膝が曲がらない、走れない。やりたいと思う動きができない。焦燥にかられ、引退を考えたこともあった。それでも競技人生をあきらめなかった。
「勝ったことがなかったので、勝ちたいというのが自分の中では一番でした。それにこのまま引退したらみんなの思っている皆川賢太郎で終わってしまうと思ったし、自分自身も納得いかなかったので、そういう意味でももう一度やろうと思いましたね」
怪我をしたことで、自分自身への捉え方にも変化があった。
「へんな言い方ですが、昔は自分は特別な人間だと思っていたんですよ。小学校でも中学校でも高校行っても、体育の授業やればそれなりにできるし、スキーの大会に出れば地域で一番、県で一番、全国で一番とずーっときて、世界ジュニアに出れば当然入賞したりという自分がいたので、自分が特別だと少し思ってたんですね。でも怪我をしたときに、決して自分は特別な人間じゃないんだなと分かった」
リハビリを経て復帰を果たした皆川だが、成績面では苦しい時期が続いた。2003−2004年のシーズンのワールドカップでは、2本目に一度も進むことができなかった。
何一つうまくいかない、苦しい時期が続いた。
ところが、それが一変するときが来た。
「ふと、歯車があうってこういうことを言うんだなというくらい、一気に流れがかわったんですね。今日もいい練習ができた、今日もいい練習ができた、と過ごしているうちに、気づいたときにはものすごくいい滑りになっていて、体をみたらものすごくいい体になっていました」
何がそうさせたのか。理由を、このように分析する。
「怪我をしていない人だと、例えば1から10を1、5、10と感じるようなことを、怪我をしているからもっと感覚的に研ぎ澄まさなきゃ、とし努めていた。1、2、3、4、5、6、7、8、9、10って分割していくというか。1日の密度、感じられる量もかわっていったんですね。スキーをしていても、ターンの連続をただ漠然としているようなレベルだったのが、例えばトップから入れてテールまでをしっかりとフォローするとか明確なものを自分で求めるようになっていました」
その延長に、3度目のオリンピック、トリノがあった。大会前、「(ソルトレークシティーでは)勝ちたい気持ちが強すぎました。今はレースを組み立てることができる。やるべき準備は全部できた」と口にした。言葉どおりの滑りが、4位という結果をもたらしたのである。