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アスリートメッセージ

アスリートメッセージ 柔道 内柴正人

成熟度の高かった北京オリンピック

代表が決まってからも、厳しさは変わらなかった。どんな技でもかけることができた4年前とは違い、痛めている左肘は背負い投げでも100%完璧なポジションに入らないと痛みが出る。痛い左手を右手でカバーするために横の動きを増やしたが、どんな技を仕掛けても入る度に肘は痛む。「今回は根気の勝負だな」と思った。

だがその分、アテネオリンピックの前以上に柔道へ集中することができた。勝つための作戦を練り、勝つ柔道にこだわった。不安を感じたのは「自分の気持ちがいつ切れるのか」ということだけだった。

「アテネオリンピックの時は、最初から勝てる気がしていたんです。でも、北京オリンピックでは『勝たなくてはいけない』という気持ちでしたね。実際に内容を見ればわかるように、アテネはいわば楽勝で勝ったんです。試合時間も合計で8分くらいだったし。でも北京へ挑戦するにあたっては、絶対に苦しい戦いになると思っていました。ケガをしていて背負い投げも満足に掛けられないし、他の技も掛けられないときがある。頼りになるのは巴投げだけでしたから」

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左肘の痛みを抱えながら挑んだ北京オリンピック
(写真提供:フォート・キシモト)

大会が近づくにつれ、ケガを除けば調子は上がってきた。練習がしたくてたまらなくなり、戦うのが楽しみでしかたなくなるほどだった。

試合は確かに苦戦した。初戦である2回戦は一本勝ちしたものの、仕留めるまで3分52秒かかった。決勝こそ1分08秒で決着がついたが、3回戦は優勢勝ち、4回戦は4分59秒で合わせ技が決まり勝利、準決勝も優勢勝ちと、時間いっぱいの5分を費やす戦いが続いていたのだった。

「楽勝でチャンピオンになったアテネオリンピックの経験もすごかったと思うけど、成熟度でいったら北京オリンピックの方が価値は大きかったと思いますね。逆転勝ちもあったし、過去のチャンピオンも倒したり、ひと世代前の中村行成さん(1996年アトランタオリンピック 65kg級銀メダル、2000年シドニーオリンピック 66kg級敗者復活2回戦敗退)が戦っていた選手たちとも試合をやれたというのもあるし。
だから混戦に次ぐ混戦で苦しみながらも、最後まで集中力を切らさずに戦って優勝できた北京オリンピックは、本当にいい経験ができたと思うんです。ただ楽勝で、強いだけでチャンピオンになっただけなら、将来指導者になっても『それはあんたが強いからだ』と言われるだけかもしれない。でも北京では、試合前に肘を手術して、それでも治らなくて技も掛けられない状態で。それに相手に研究されていても勝った充実感は大きいですね」

みんなから注目される選手、井上康生鈴木桂治、野村忠宏、谷亮子のすごさはあらゆるライバルたちから研究され尽くしても勝っていたことだ、と内柴は言う。自分では彼らに肩を並べたとまではいかないものの、オリンピック連覇で少しは近づけたのではないか、と控えめな笑みを浮かべる。


北京オリンピックで2連覇を達成
(写真提供:アフロスポーツ)

「僕は世界選手権で優勝したことがありません。でも、オリンピックは夢と希望さえあればミラクルが起きる。実際に僕はそれを起こしてきたし、『強いだけでは勝てない』という世界を僕自身で作り出したと思うんです」

オリンピックというのは特別な舞台だ。それを内柴は、2度勝って確認した。

「秋本とはそんなに差がない状態の中で、最後は『内柴だろう』という感じで代表に選んでもらえたけど、実際、秋本の方が努力をしていると思います。でも好きでやっているのか、『これをやらないと生きていけない』という思いでやっているかの差だと思うんです。僕は高校時代から、遊ぶこともせず本当に柔道のことだけを見つめてやってきたし、同世代の人たちと比べても、柔道に対する思いの差があるな、っていうのはすごく感じていましたから。北京オリンピックで勝ったことで、柔道が自分が生きる手段であるという思いがさらに強くなりました。センスとか体の大きさでいったら僕は決して恵まれていないけど、本当に思いだけで実力を磨いてきたんだと思うんです」

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国士舘大学で行われたインタビュー

北京オリンピックが終わった後、30歳の内柴は現役を続行する決意をした。その後、練習不足の状態で臨んだ12月の嘉納杯は2回戦で敗退した。だが、柔道を続けていく気持ちにブレはない。「これ以外に仕事のしかたを知らないですから」と苦笑する。

「オリンピック3連覇は先のこと過ぎるでしょう。遠いですね。でも昨日、3連覇する夢を見たんです。よく野村先輩に追いつけと言われるけど、僕は人の記録には興味がないですね。いつも僕は人とではなくて自分と戦っているから。だから僕がこれからやらなければいけないのは、1年ずつやりながら、僕の心の記念館の中に1個でも多くのタイトルをしまい込むことですね。そこにはまだ、野村先輩に初めて勝った嘉納治五郎杯の金メダルと、アテネオリンピックと北京オリンピックの2個の金メダル、合計3つしか入ってないですから(笑)」

60kg級時代の彼は、常に自分の体重と戦っていた。「強くなりたい!」と思って努力すればするほど、体重が増えてしまい減量が苦しくなっていたからだ。66kg級に階級を上げた時、彼は「思う存分、強くなるための努力ができる」と顔をほころばせていた。だがオリンピック王者へと駆け上がってからは、折れそうになる自分の心との戦いを強いられていたのだ。

現役続行を決めた内柴の、自分自身の心との戦いは益々厳しくなるだろう。だがその厳しさがわかっているからこそ、彼は戦ってみたいのだろう。

「自分は今、力一杯生きている」
と、実感し続けたいのだ。

(2009.2.27掲載)

インタビュー風景
内柴選手からのビデオメッセージ!!
「これからも現役選手として・・・」

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内柴正人(うちしば まさと)/柔道

1978年6月17日生まれ。熊本県出身。旭化成株式会社所属。
小学3年から柔道を始め、中学3年次には全国中学大会、高校3年次にはインターハイで優勝した。60kg級でのオリンピック出場を目指していたが、度重なる減量失敗に苦しみ、66kg級へと階級を上げ、アテネオリンピックでは見事金メダル。その後は国内外での大会で勝てない時期が続くも、2008年4月の全日本選抜体重別選手権で優勝、北京オリンピック出場権を獲得した。左肘の痛みを抱えた状態で挑んだ北京オリンピックでは、苦戦を強いられるも優勝。2大会連続で金メダルを獲得した。
北京オリンピックのプロフィールページ


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