アスリートメッセージ
馬とともに華麗に力強く障害を飛び越える障害飛越競技。 馬術はオリンピック競技の中で唯一男女別なく行われる競技だ。 しかし、日本馬術界の長い歴史の中でオリンピックの障害飛越競技に女子選手が参加したことは2004年のアテネオリンピックまで一度もなかった。
(写真提供:アフロスポーツ)
渡辺祐香選手は日本馬術界史上初、障害飛越競技の女子代表として愛馬ナイキ号とアテネオリンピックに臨んだ。
両親が馬術を趣味とするという恵まれた環境から3歳で馬に乗り、高校3年生のときの全日本障害飛越馬術大会、特別大障害飛越競技での優勝を皮切りに国内の大会で数々の優勝を納めてきた。
高校生で日本のトップクラス選手になった彼女はさらなる向上を目指し、世界ナンバー1といわれるドイツに渡ることを決意。日本代表チームの東良弘一監督を介してシドニーオリンピック障害飛越団体金メダルを獲得するなど世界トップクラスであるオット・ベッカー選手(ドイツ)と出会い、師事した。
高校生で全日本チャンピオンともあれば、1996年アトランタオリンピック、2000年シドニーオリンピック出場も当然、視野に入っていたかと思いきや、渡辺選手がオリンピックを意識したのはアテネ大会の2年前だった。
「日本で優勝しても私の実力はドイツでは裾野レベル。日本でオリンピック代表に選ばれるよりもドイツの馬術界で認められる方が大変です。ドイツと日本のレベルの差はそれほどまでに大きく、ドイツでは一から勉強のやり直しでした。ベッカー先生もしっかりと馬術的な基礎や選手としての心構えを教えてくれる先生だったので、いい経験ができました」
(写真提供:アフロスポーツ)
ひたすら前向きに技術を磨いていくうち、次第に認められるようになり、ベッカー先生から「オリンピックを目指してみないか」と声がかかった。
「それまでオリンピックなんて雲の上の話でしたけれど、ベッカー先生に認めてもらえたことが本当に嬉しかったです。自信もついて、ようやくオリンピックを目指したいと思うようになりました。アテネオリンピックは緊張しましたが、ほぼ計画通りに行きました」
順位こそ39位であったが、並みいる世界トップクラスの選手がミスをおかす中、渡辺選手は初のオリンピック出場にもかかわらず障害減点はゼロ。1つのバーも落とすことなくゴールした。これは日本初の快挙だった。
それから2年を経た今、「オリンピックがあまりにも大きい目標で、自分が持っている以上の力を使い果たしました。ですからオリンピックが終った後、すぐに北京オリンピックを目指すという気持ちにはならず、しばらくはのんびりしたいと思いました」と、小柄な身体で必死に耐えた重圧の大きさを話してくれた。