アスリートメッセージ
現在のトラップ種目の競技は5つの射台を1番から順に5番まで、射手が移動して標的を撃つ。標的は射手の15m前方の位置から左、中央、右のいずれかの方向に1つだけ放出される。射手は1つの標的に対して2発発射することができる。
ダブルトラップ種目は同時に放出される2つの標的を2発で射撃する。
アテネ大会のダブルトラップ種目は予選120点(1ラウンド40発の競技を3ラウンド行った合計点)、決勝40点、合計160点の競技だ。優勝したアメリカのロード選手が予選110点と決勝36点で合計146点。井上選手は予選109点と決勝31点で合計140点。5人の選手が6点差の中にいたことになる。
6月には「今はオリンピックのことだけしか考えられない」と言っていた井上選手も、アテネから帰国する時にはすっかり普段の落ち着きを取り戻し、「また次回がんばります」と笑顔で答えた。
井上選手は「クレー射撃はすぐに白黒がはっきりするところが性格に合っていると思います。大学ではホルンを演奏していましたが、管楽器はある程度クレー射撃で標的を狙うのと同様に倍音の中から自分の出したい音を狙って出すので、この競技と共通しているのかもしれません。
アテネ大会が終わり、メダルを取らなくてはだめだな、と強く思うようになり、次のオリンピックを目指す意欲が湧いてきました。日本へ帰ってきてからは、ゆっくりしたいと思う間もなく全日本選手権大会やワールドカップファイナルに向けて、すでに練習を開始しています。次のオリンピック、北京大会のクレー射撃にはスキート射撃もありますが、私はやはりトラップ射撃での出場を狙います。次の大会は4年後ですが、その出場資格を取るための試合は2006年から始まりますし、アジア競技大会も控えています。今は休むことなく、前を向いて挑戦していきたいという気持ちです」
クレー射撃のもう1つの種目スキート射撃は、1915年に陸上で鳥猟に使用する猟銃を使って狩猟の練習をするためにアメリカで考案された。当初は時計を地面に置いたと想定し、各時間のところに射台を設置し、12時方向より6時方向に放出する標的を射撃したため、「時計廻りの射撃」と呼ばれ、1920年までに多くのハンターの興味を誘い発達を遂げた。
ところが、この射撃場のあったマサチューセッツ・アンドーバーの射撃場近くの養鶏者から、散弾が降ってくると苦情が絶えず、円形の射面が半円形に変更され現在に至っている。また標的放出機も半円の直径(基線)の直線上の両端に1機ずつ設置され、2個の標的を射てるように改められた。
俗称のまま行われていたこの射撃は、隆盛に伴い正式な名称が必要になってきた。そこで1926年、射撃や狩猟の専門誌で名称を公募したところ1万件もの応募があり、その中から「スキート」という名前が選ばれた。スキートは古いスカンジナビア語で「撃つ」という意味。提案者のモンタナ州のハールバット夫人は100ドルの賞金を獲得した。
現在のスキート射撃は、1番から8番までの射台で、射手は1ラウンド25個の標的を男子は予選5ラウンドと決勝1ラウンド、女子は予選3ラウンドと決勝1ラウンドを撃つ競技だ。現在日本クレー射撃協会の会長を務める麻生太郎衆議院議員は、1974年に開催された第21回メキシコ国際射撃大会のスキート射撃で個人優勝、1976年にモントリオールで行われた第21回オリンピック競技大会に選手として出場されている。
前述の通り、クレー射撃は生涯スポーツとして親しまれている競技だが、井上選手はその好例としてこんな話をしてくれた。
「ある時80歳になるクレー射撃が趣味の男性が、射撃を終えて頭が痛いと言って帰りましたが、実はその時脳梗塞を起こしていました。回復後その方は身体のリハビリのために、またクレー射撃を始めたんですよ」
射撃の道具は重さ約4kgの銃だけで、身体にほとんど負荷がかからないことが生涯スポーツといわれる大きな理由だろう。
「海外では70歳くらいの現役の選手もたくさんいます。日本クレー射撃協会の設定では35歳まではジュニアなのですよ!」と井上選手。年齢の設定からも息の長い競技であることが伺える。
「クレー射撃の種目はこれまで増えたり減ったりを繰り返してきています。2008年の北京大会でダブルトラップ女子が消えたとしても、ずっとそのままということはないと思っています」
いつかきっと、再び女子のダブルトラップがオリンピック種目となることを期待しながら、井上選手はまだまだ続く競技人生を前向きに歩み始めている。
神奈川県出身、1973年4月27日生まれ
出身校・在学校 武蔵野音楽大学
勤務先・所属先 株式会社ナスタジャパン
決勝40点満点=35点
アテネ大会の成績 5位入賞(140点)