パリ2024オリンピックで大活躍を見せてくれたフェンシングTEAM JAPANにあって、3位決定戦で世界ランキング1位の地元フランスを破り、見事に銅メダルを獲得したのが女子サーブル団体の4人だった。サーブルでのオリンピックのメダルは男女通して史上初の快挙だった。
――皆さん、銅メダル獲得、本当におめでとうございます。
<全員> ありがとうございます。
――実は10年ほど前、江村選手には、エリートアカデミー時代にこのOLYMPIANでインタビューをさせていただいたことがありました。こうやって、メダルを獲得して改めてインタビューできることを本当にうれしく思います。
<江村> ありがとうございます。
――日本フェンシング史上、オリンピックにおけるサーブルでのメダルは男女通じて初めてということになりました。4人で歴史を創ったということになりますが、ぜひ率直なご感想からお願いできますでしょうか。
<福島> サーブル史上初のメダルということで、素直に「うれしい」という一言に尽きます。私たちが国際大会の団体戦でメダルをとったのも、2年前の世界選手権が最後で、今回2年ぶりのメダルということになりました。この2年間なかなか勝てなくて悔しかったり悩んだりすることも多かったのですが、昨日の団体戦は、最後にこうやってみんなでつないでいい試合ができたと思います。チーム一丸となってみんなでメダルがとれたことがすごくうれしいです。
<髙嶋> フェンシング発祥の地、フランスで行われる特別なオリンピックでした。みんなで目指してきたこの舞台で、全員で戦い、全員で勝ちとったメダルで、全員の努力が報われた一日だったと思います。
<尾﨑> このメンバーでオリンピック初のメダルを獲得することができて、本当にうれしい気持ちでいっぱいです。最後、3位決定戦の相手がフランスだったこともあり、会場もすごくアウェイの雰囲気で苦しい場面がいくつもあったのですが、「全員で45本をとり切ろう」と話して、しっかりみんなでつないで実際に45点をとり切れたことは、チームにとってもすごく自信になりました。このオリンピックの銅メダルが女子サーブルチームにとって今後の大きな一歩になっていくと思います。
<江村> メダルがとれなかったこの2年間は、悪い流れが来た時にそのまま悪い方に流れてしまうことが多かったかなと思います。自分は、個人戦からなかなか調子をとり戻せないまま団体戦を迎えてしまい、チームの足を引っ張ってしまったと思うのですが、その中で本当に粘り強く最後までつなげてくれたチームの仲間たちと応援の力があっての銅メダルになりました。自分も本当に苦しい期間でしたけど、最後までみんなのおかげで戦い切ることができて、そしてメダルを日本に持ち帰れることが本当にうれしいです。
――江村選手は、パリ2024オリンピックで旗手も務めました。重い責任を担い、周りの期待も大きかったことで、精神的負担も増えてプレッシャーになったのではないかと想像します。個人戦で思うような結果が残せなかった中で、団体戦に向けてどのように切り替えてどのような気持ちで試合に向かっていったのでしょうか。
<江村> 最後の試合となった3位決定戦の相手は、開催国のフランスでした。世界ランキングも個人・団体ともに1位の選手たちが揃っている国ですし、正直なところ勝てるイメージ全然湧いていませんでした。準決勝で負けた後でしたし、手応えもなく、切り替えもできず、気持ちを入れるのが難しかったです。それでも、「気持ちだけは絶対に負けないように戦おう」と試合前にみんなで話していたので、アウェイの雰囲気の中で実際に戦い始めて、思いきり声を出して、私はとにかく「いい雰囲気をつくって次につなげることを考えよう」という思いでやりました。みんながどんどんいい流れをつくってくれて、だんだんと「本当に勝てるかも」というふうに思えてきました。
――初戦のハンガリー戦から振り返りたいと思います。福島選手は、9―0というシーンがありました。チームに勢いをつけたと思いますが、ゾーンに入るような感じだったのでしょうか。
<福島> まさにゾーンに入ったという感じでしたね。目の前の1点をとることだけに集中していて、試合中は点差などを意識せずにプレーしていました。終わってみて、「え、9―0なんだ!」というくらいで。本当に1点をとるのに必死でした。
――準決勝のウクライナ戦では、福島選手に代わり、リザーブだった尾﨑選手が投入されました。リザーブという難しい立場でしたが、どのような心構えで準備をしながらお待ちになっていたのでしょうか。
<尾﨑> リザーブというポジションですから、いつ出るかも分からないですし、チームが苦しい場面で投入されることが多いと思うんですね。でも、そういうポジションであることをしっかり自分で理解した上で、いつ、誰と交代しても、試合がどんな状況でも、声がかかったら、自分の100%の動きを出せるように準備をしていたつもりです。
――先ほど江村選手もおっしゃっていたように、3位決定戦は地元・フランスとの対決となりました。会場も完全アウェイということで本当に難しい戦いだったと思うのですが、皆さんはどのような話をして、この試合に臨んだのでしょうか。
<髙嶋> 試合前から歓声がすごいことは分かっていました。その中で戦うことで、苦しい状況に追い込まれる場面の方が多いだろうということも事前に分かっていました。ですから、気持ちを強く持って、チーム全員で45本をとり切ることだけを考えて、一人一人がピストに立っている時に後ろからみんなで声を掛け合って戦ったことが、勝利につながったかなと思います。
――髙嶋選手は第7試合でサラ・ヌーチャ選手を6―0と逆転しました。あのシーンは非常に大きかったと思います。ご自身はどのような手応えで戦っていたのでしょうか。
<髙嶋> ゾーンに入っているような感じでした。いつもなら点数を気にしながら戦うことが多いのですが、あの時は、もう一切点数を見ずに戦っていました。次から次にどんどんアイデアが浮かんできて、気づいたら点をとって終わっていたという感じでした。
――江村選手は、そうしてメンバーがつないできた中で、第9試合はサラ・バルゼ選手との戦いになり、最後を締めて45点をとってチームを勝利に導きました。どんな思いで戦っていたのでしょうか。
<江村> 正直なところ、今になっても自分でもあまりよく分からないんですよね。本調子ではなかったので、9試合目を迎える前に、「みんながここまでつないできたのに、すべて自分が台無しにしてしまうのではないか」と怖い気持ちだったように記憶しています。
対戦相手とは何回か試合をしたことがあったのですが、相手のパターンもつかみづらくて、何をすべきか本当に分かりませんでした。以前戦った時の印象では、こちらが前に行った時に相手が剣を止めたりするのが得意だったので、最初は前に行くのではなく、しっかりと足を使ってディフェンスに回りながらポイントをつくっていこうという気持ちで試合に入っていきました。ただ、それがあまりうまく機能しなかったので、「リスキーだけどもう前に行くしかない」と思いました。でも前に行くのは怖いこと。とくにあの場面、自分一人だったら本当に怖くて難しかったと思いますが、ベンチからみんなが背中を押してくれたから、勇気を出して前に出ることができたと感じています。
――皆さんのチームワークが銅メダルにつながったのですね。改めて、おめでとうございます。本当にありがとうございました。
<全員> ありがとうございました。
江村美咲(えむら・みさき)
1998年11月20日生まれ。大分県出身。小学3年でフルーレを始める。小学校卒業直後に出場したサーブル大会に優勝し、同種目に転向。2017年ユニバーシアードでは女子サーブル団体で金メダルを獲得。18年全日本選手権サーブル個人で初優勝。19年全日本選手権で連覇を達成。21年中央大学を卒業後、フェンシング競技では初となるプロに転向する。同年東京2020オリンピックは、個人は2回戦で敗退して13位、団体では日本女子過去最高の5位入賞を果たす。23年には日本女子初となる世界ランキング1位となる。24年パリ2024オリンピックでは女子サーブル団体で銅メダル獲得に貢献。株式会社立飛ホールディングス所属。
髙嶋理紗(たかしま・りさ)
1999年2月8日生まれ。福岡県出身。福岡県タレント発掘事業を契機にフェンシングを始める。中学進学時に上京しJOCエリートアカデミーに入校。2013年アジア・ジュニア・カデ・フェンシング選手権大会ではカデ女子サーブル個人で優勝。16年アジアジュニア選手権女子サーブル個人で金メダルを獲得。17年法政大学に進学、同年ユニバーシアードでは女子サーブル団体で金メダルを獲得。21年、23年の全日本選手権サーブル個人で優勝。24年パリ2024オリンピックでは女子サーブル団体で銅メダル獲得に貢献。オリエンタル酵母工業株式会社所属。
福島史帆実(ふくしま・しほみ)
1995年6月19日生まれ。福岡県出身。小学4年の時、福岡県タレント発掘事業で適性を見出され、高校入学を機に陸上競技から転向しフェンシングを始める。2013年、高校3年時のインターハイでは女子サーブル個人で優勝。法政大学に進学後、16年全日本選手権女子サーブル個人で優勝。17年ユニバーシアードでは女子サーブル団体で金メダルを獲得。21年東京2020オリンピックでは女子サーブル団体のリザーブメンバーから試合に出場し、団体5位入賞に貢献。24年パリ2024オリンピックでは女子サーブル団体で銅メダル獲得に貢献。株式会社セプテーニ・ホールディングス所属。
尾﨑世梨(おざき・せり)
2002年9月22日生まれ。北海道出身。小学6年まで空手とチアダンスに取り組んでいたが、中学1年からフェンシングを始める。17年、東日本少年個人フェンシング大会の中学女子サーブルの部で優勝。同年全国中学生選手権女子サーブルの部で優勝を果たす。高校時代には19年アジアカデ・ジュニア選手権で銀メダルを獲得。法政大学に進学後、シニア日本代表にも選出され、22年世界選手権では女子サーブル団体で銅メダル獲得に貢献した。24年パリ2024オリンピックではリザーブメンバーとして選出。女子サーブル団体に出場し、銅メダル獲得に貢献した。法政大学所属。
注記載
※本インタビューは2024年8月4日に行われたものです。
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