東京オリンピックが残したもの
しかし、オリンピック開催の真の意義は、大会後にどのようなものを残すことができるかにあるのだ。
悲願の1964年東京オリンピック
東京オリンピックは日本のスポーツ界に有史以来の大きなインパクトを与えました。まず、金メダル16個を含む計29個のメダルを獲得し、国際競技力のレベルで、いくつもの競技が「世界に追いつけ、追い越せ」を実現し、あるいは実現可能な手応えをつかみました。
オリンピックの翌年、サッカーが先鞭をつけた実業団による日本リーグは、バレーボール、バスケットボールなど多くの競技に広がり、トップレベルの戦力強化に貢献しました。
他方、東京オリンピックのコーチや選手だった人々が、同じくオリンピックの翌年から始めた水泳、体操などを中心とするスポーツのクラブ(スクール、教室)は、たちまち全国に波及し、幼児から家庭の主婦、中高年まで、幅広い人々が参加するようになりました。
1970年代初頭に世界的になったスポーツ・フォア・オール(国民皆スポーツ参加)運動の「日本版」は、東京オリンピックの開催をきっかけとして生まれたのです。歴史に「…たら」「…れば」は禁物といわれますが、もし、あの時期に東京オリンピックがなかったら、わが国のオリンピック・スポーツの発展は今日と同じではなかっただろうと思います。
講道館柔道の開祖・嘉納治五郎のIOC委員就任(1909年=明治42年)によって始まった日本のオリンピック運動は、1932年のロサンゼルス大会(金メダル7、銀メダル7、銅メダル4)と、続く1936年のベルリン大会(金メダル6、銀メダル4、銅メダル10)での水泳・陸上競技を中心とした活躍で、まずは世界の仲間入りをし、そして東京が1940年の第12回オリンピック開催権を得ながら、日中戦争の進展など、国際情勢の悪化によって、これを返上せざるを得なかったことはご承知の通りです。
続く太平洋戦争で欧米主要国を敵に回したことから、日本スポーツ界はIOCをはじめ、すべての国際競技連盟から除名または資格停止されました。再び仲間入りできたのは、いずれも戦後4、5年以上経ってからであり、このため戦後初のオリンピックである1948年(昭和23年)のロンドン大会には参加できずじまいでした。
こうした事情で、日本は戦前戦後を通じて10年余もスポーツ国際交流に空白をつくりました。そこで、この立ち後れを解消し、再び世界に雄飛する起爆剤として、日本体育協会(体協。日本オリンピック委員会=JOCは、当時体協の一組織)は、東京都の同意を得て、今度こそ東京オリンピックの開催を実現しようと考えました。
そして、日本が復帰できた戦後2度目のオリンピック、1952年(昭和27年)7月の第15回ヘルシンキ大会に先立ち、1960年の第17回大会開催地に立候補。これは時期尚早で根回しも十分ではなく、失敗に終りましたが、続いて1958年(昭和33年)、今度は1964年の第18回大会に立候補、翌年5月にミュンヘンにて開催されたIOC総会で首尾よく宿願を達成しました。