市川崑総監督が語る名作「東京オリンピック」
東京オリンピックにおいて制作された映画「東京オリンピック」は、一流の選手たちの躍動する肢体美を追求し、さらに選手の内面にまで迫った。そしてスポーツの素晴らしさを我々に伝え続けてきた。
制作から40年を経て、市川崑総監督が語る東京オリンピック。
そこには、大いなるこだわりと苦労があった。
- 1.オリンピックとは何かを知るために
- 2.随所に見せたこだわり
- 3.映画「東京オリンピック」について
1. オリンピックとは何かを知るために
−先生があの映画をお引き受けになったのは、オリンピックの年の初めだったそうですね。準備期間が短くて、大変ご苦労されたと思うんですが・・・。
市川: ほんとうにそう。今、思い出してもびっくりするような・・・。あれは最初、黒澤君(故黒澤明氏)が引き受けて、ローマオリンピックも見に行ったりしていたんですが、いろいろな事情があったのでしょう、降りたので、まあ、ぼくがピンチヒッターとして選ばれたのでしょう。当時、ぼくは大映と契約していたんですが、永田(雅一)社長が「要請があるなら、やれ」と。
−それまで、スポーツやオリンピックへのご関心は?
市川: ありませんでした。記者発表の時もそういう質問が出ましたが、「昔からジャイアンツのファンだけども、あとはよくわからない」と答えて、大笑いになったくらいで(笑)、オリンピックのことはよく知りませんでした。ニュース映画5社がつくった『東京オリンピック映画協会』が制作を引き受けており、その事務所が銀座2丁目の『トラヤ』という帽子屋さんの4階にあるというので行きました。そこに田口委員(注:田口助太郎氏)と事務員が二人。4月でしたから、これで10月から始まる大会に間に合うのかと唖然としましたね。シナリオはどうするのだろうと思っていたら、オリンピック委員会の方から必要だというので、夏十さん(市川氏夫人、脚本家・故 和田夏十氏)、谷川俊太郎さん、白坂依志夫さんに協力を要請し、4人で打ち合わせを始めたのですが、どんなシナリオを書けばいいのか、困りました。そこでオリンピックとは何かを知るために百科事典で調べることにしました。
−そうだったんですか。
市川: それでわかったのは、第一次世界大戦で中止、第二次世界大戦で中止。つまり4年に一度、人類が集まって平和という夢を見ようじゃないか。それがオリンピックの理念だとわかりました。これをテーマにシナリオを書いたのです。それを全スタッフに渡しました。おかげでスタッフに制作意図がよくわかってもらえたと思います。スタッフにぼくの意図がどう浸透するか、これがいちばん重要なことなのです。特に記録映画は初めてでしたからね。
創造力の発揮、そしてオリンピック映画の制作へ
−戦前のベルリンオリンピック(1936年)でレニ・リーフェンシュタール(ドイツ)がつくった『民族の祭典』『美の祭典』はご覧になっていらっしゃいますか?
市川: 勿論見ました。ミュンヘンオリンピック(1972年)の時、リーフェンシュタールさんに偶然会って、いろいろな話しをしました。とにかく『民族の祭典』は名作だと思います。あらゆる政治的なことは一切抜きに、映画として素晴らしい。そんな名作がありますから、やっぱり……初めはたじろぎましたね、負けないようにと思ってね(笑)。
−でも、それが先生の作品の制作のエネルギーになったのでは?
市川: 引き受けた限りはなんとか頑張ろうと思って。とにかく、単なる記録映画にはしたくなかったですね。自分の意思とかイメージというものを重く見て、つまり創造力を発揮して、真実なるものを捉えたい、と。
−劇映画なら、監督が自分の考えやイメージで自由に創造していけるわけですが、記録映画は目の前の現象を忠実に捉えていかなければならないので、そのへんはなかなか難しいことでしょう?
市川: そうですね、映画に変わりはないんですが、やはりテーマの把握とか、表現方法なども違うと思います。『民族の祭典』を参考にさせてもらって、全然違ったオリンピック映画を創作しようと思いました。
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